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戯曲の講読、上演許可の連絡などは office白ヒ沼 までどうぞ。
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夏。とは。岡山県にいってきた。山の奥のほうは、空がすかっと高い。
高校生たちと部屋にこもって台本を書きあう合宿だ。
せっかくの「星の里」っていう施設なのに、夜、星なんて誰も見ない。
皆机にかじりついて懸命。
無事に全員が二泊三日、発表会までたどりつきました。
よかった。ほっとした。

こんな夏もある。

今週末、いよいよ鳥取公演。
鳥取の里もきっと星がたくさんな場所があるんじゃないかと思うのに。

季節がとおりすぎていく。
これが演劇のいいところですな。
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ゆがむ風景
瀬戸内海の風が湿気を払ってしまうのか、ずいぶんさわやかな空気に感じる、夏の松山。電車で走る窓からうつすと、風景はゆがんで画像に定着される。その不思議。
世界は見る目によっては違って見える。
私には世界は残酷な末路に向かって進もうとしているように見える。他の人にはそう見えないのだろうけれど。他の人の目にはこれくらいに見えているのじゃないか?人と話すとずれる。そのたびにそう感じる。いや、他の人には私の見え方のほうがこちらなのだ。知っている。
食い止めるのは私たちで、私たちが動けば食い止めるのは可能なことで、それは過去の歴史もそう証明しているのだが、だって、動かしているのは私たち人類なのだから。自滅の道、といってもよいのだろう、この今のいろいろな問題。皆が知っている新聞の見出し。
人が自分の損得を優先し、自分が生きていくことだけを優先し、それが人間よ普通のことよ、と開き直って家族のことだけ考えると、悲しいかな類としての人間というのは機能不全に陥る。皆が、自分の家族が飢えないように、って考えて、そういう「善意」が戦争を引き起こしたのをもう忘れている。家族を超えて、類としての私たちはどうするのか。
 
そしたら、
「演劇で食っていく」ってことはそんなに大切なことか?
食っていくことを優先したら質はおいてきぼりになる。ってことに悲しみを抱くふつうの感性はどこにしまっておけばよいの?
 
いや、私が見ているのはこんな風景なのだ。それはそれなりにスリリングで楽しいけれど。
原爆先週末、行ってきた。
3ヶ月かかったワークショップが終わって。
どうしたことだろう、とんでもなく熱心な人たちに出会って。それはまるで別世界の非日常で。
受講生の皆さんもふわふわした感じで過ごしたんじゃないかと思うのだけれど、
もちろん私も地に足のつかない感じで熱に浮かされ。

そのなかのひとこま。

車座になって30名弱の役者たちが座る。その取り囲む中で二人の役者が演じてみせる上演会。素舞台、照明は天井の室内灯。役者はジャージ。
「純喫茶マツモト」という長い芝居の一場面、40分ほどの上演が行われた。
ああ。見せてあげたい多くの人に。このぜいたくな時間。
切ない、ぎりぎりの人がそこにいる、演じている役者がその役になっているのか、その役はその役者が勝手にそう変えてしまったのか、もうそこには役者以前の「人」がいた。――演技の理想じゃないか?!
泣いてしまった。ああ。なんていうことだ。
こんな規模の、こういうささやかな空間に、こんな奇跡は時々起こる。

役者、すばらしい!彼らがほとんど未経験者だなんて信じられない。信じたくない。
いい台本書くよな。誰だこれ?あ。俺か。ってきづけるときのこの幸せ!

いい気なものです。いや、幸せはこういうときにかみしめればいいのだと思います。
上演した二人もすごかったけれど、それを実現させる空気を作っていた多くの他の人たちにも、その頑張りにも拍手を送りたい。

ああ。あれを京都に持ってこれないのかな。とつぶやく帰り道。
朝まで打ち上げたあと、炎天下の広島の川沿いを歩いたら、原爆ドームに来ていた。
鮮烈な衝撃は、やっぱり唐突にやってきて。
この建物の残骸の衝撃はやはり小さくない。

戦争はいらない。
生活の必然がきっとそのまま曲がりくねったら戦争にたどり着いたりするのが悲しいこの人間の必然なのかもしれない。けれど、それじゃ、生活には演劇はいらない。と断言しよう。
そして、生活の必然にはないものこそ、人間の宝なのだ!と主張しよう。
宝のような演劇をみた後では、そういう演劇活動の熱さに接した後では、自信を持ってそう言える。
夕日

お芝居、無事に終わりました。ありがとうございました。
片付けの日。
今回の舞台はまだまだ鳥取、倉敷、東京、そして又京都、と再演が決まっているので、捨てなくていい。
大量の材木やら小道具やらを積んで、4トントラックは東へ。
琵琶湖を渡り、倉庫を求めて東へ。

そして倉庫から帰ってくるみち。
夕日に向かって疾走する。そんな時間がきました。

ああ。ひとつお芝居が終わった。

いろんな新聞で劇評してもらっています。
見てくれた方、ありがとうございました。
これから見る方、どうか期待してください。

まだまだこの芝居は続く。

ころがるのだ

演劇の稽古は、本番の時間よりはるかに長い。
あたりまえだけど。
いや、だけどその当たり前が、時々は不思議だ。
むかし、漫画家を目指してた。
僕の理科の教科書は手のひらの絵だらけ。
ページをめくると親指たててるこぶし。小指まるめてるこぶし。人差し指が横向いてるこぶし。ちょきの形の手の甲。
スケッチしてたのだ。授業中に。漫画家はデッサンが命だから。デッサンの力をつけようと。それぞれの手のひらの絵には番号がついていた。343、344、……おそらくそれくらいはついていた、という記憶がある。影もついていたから、なにも知らずに友だちがひらくと、一瞬ぎょっとされる。まるで部屋を空けたら裸の死体が床に、……というようなグロテスクさ。いや。リアルすぎてグロテスクなくらいの影をつけていた。

そんな長い長い積み重ねの上にやっとこさ描いた漫画を、マガジンを買った人はほんの7-8分で読みきってしまう。
はじめて知った不条理だった。
なるほど。

その辺あるいてたら見える建物も、電柱も、電線も、何気なくそこにあるけれど、そういえばすごく時間をかけてたててる。存在のための時間は、やはりすごい。

つまり、そういうことがあるから表現なのだ。
いきとしいけるものは全て表現だ。そういえば。

「顔を見ないと忘れる」稽古してます。
間もなく本番です。


ころがる
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