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大阪高裁が先週、一審に続いて訴えを退けた。
遺族が靖国神社の合祀の名簿から親族の名前の削除などを求めた裁判で、のことだ。
亡くなった肉親を静かに弔っていた遺族のもとに、「故人を祭神として祀った」という通知が宗教団体=靖国神社から届いた。やめてほしい、と求めたら「教義で取り消しできない」と拒まれた。普通、納得がいかない話だ。しかし、判決は、納得せよ、と断じたのだ。
これは太平洋戦争前の国家神道の時代のお話じゃない。先週の話だ。
判決は言う。
靖国神社にも信教の自由が保障されている、と。
遺族の主張は、合祀に対する不快な真情や靖国神社への嫌悪の感情でしかない、と。
実は1988年に最高裁の判決があって、それを今回の判断のよりどころとしたようなのだ。その判決はもっとひどい。
殉職自衛官合祀についての訴訟だ。殉職した夫を遺族の意思に反して、護国神社が合祀したのは違法だ、と訴えた妻に対して、最高裁は「寛容であれ」とさとしたのだ。神社の宗教活動の自由のために、私人はがまんすべきなのだ。と。
以上は26日の朝日新聞の社説で読んだ記事だ。ひどいはなしだ。宗教団体に祀られるかどうか、を個人が選ぶ「自由」はないのだ。宗教団体のほうには勝手に人を祀る「自由」があるのだけれど。これは冗談じゃない。国の最高権力が堂々と認めている「自由」だ。
裁判所は、どんな宗教団体にもこんな自由を認めはしないだろう。私はそう推測する。ことは靖国神社だから、護国神社だから、つまり戦死者を神として美化する特殊な装置だから、特別なのだ。仏教の団体はこんなことをしないし、キリスト教の団体にこんな自由を国家権力は認めないだろう。国家権力が国家神道を称揚し、国家神道が戦死を美化して、戦争を推し進めた。そして多くの若者を殺した負の歴史。それを反省して「政教分離」原則を憲法に定めたのが今の日本なのに、いま、また国家権力は靖国神社を特別に手厚く支持している、といってよいのじゃないか?
裁判所、裁判官、というのはいまや三権分立どころではない。戦争国家と密着した権力擁護機関になってしまった、と言われても反論できるのだろうか?
海はこんなに美しいのに、この海が戦死の魂を美化する海にされてしまうのはもう遠くない先だと感じる。おそろしい。皆さんはどう感じますか?
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