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戯曲の講読、上演許可の連絡などは office白ヒ沼 までどうぞ。
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「家を出た」の稽古を始めた。桐朋学園芸術短期大学、演劇専攻の専攻科の試演会。
くわしくはまたゆっくりあとで。
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あらたに、「オフィス白ヒ沼」のサイト、「鈴江俊郎 戯曲」のページに、戯曲を一本加えました。
「ふるさとを捨てる」。東日本大震災後の福島。原発事故のあと、西日本に移住しようとする兄。弟も放射能の影響を恐れて、子育てをする土地を移そうと妻を台所に呼び出した。妻はそれを「心配しすぎが」「風評被害だ」と否定する。実のところ、妻にはもっと大きな気がかりがあったのだ。……男2人女1人、 あるいは男1人女2人の3人芝居。15分の上演時間。2012年3月「震災SHINSAI-Theaters for Japan企画」にてリーディング上演したものです。英語訳の10分バージョン「Abandon Home」もあります。
どうか多くの人に読んでもらいたいと思います。どこかでフルプロダクションで再演してもらえたらうれしいなあ。

石ころたちは無表情か?いやこちらの心持ちをうつしとってしまうだけかもしれないけれど、感じる。感じますぞ。
どこかの山からおりてきたら。


どういうことか、なにも語ろうとしない石の並びが、なにかを思っているような気がする時間。
どこかの山の中を歩いていたとき。


ながめのよい村。
夏。夕暮のちょっと前。
どうしてだろう、緑の多さと花の多さと、どうしてこんなに美しく見えるのだろう。
この人の住む風景が、とくべつな風景に見えた。岩手と青森の県境あたり。

報告の続きです。
劇作家、篠原久美子さんの文章です。


………………………………
3月12日(月)
時差ぼけのせいか朝5時に目覚めてしまい、昨日の舞台の様子をレポートにまとめたり、メールで日本の劇作家達に報告したりして、午後からJapan Societyに赴く。
河原その子さんと久しぶりの再会を果たし、フォーダム大学での学生達によるリーディングの様子を詳しく伺う。また、学生達の脚本の感想や、現地でのこのイベントの報道、震災全般に関するアメリカでの反応などのお話を伺う。
その後、山本さん、塩谷さんとお会いし、通訳のLeon Ingulsrud氏をご紹介いただく。
先にIngulsrud氏と打ち合わせをし、その後参加者全員での打ち合わせをして、19:00からAuditoriumでトーク・セッション“SHINSAI : THE CONVERSATION-THEATER ARTISTS RESPOND TO THE EARTHQUAKE IN JAPAN”が始まった。会場にはすでに50名くらいの人が入っていた。

参加者は下記の通り
Anne Cattaneo(リンカーンセンターシアター「ディレクターズ・ラボ」のディレクター:全体の進行役を務めてくださいました),John Weidman, John Guare, Philip Kan Gotanda, 篠原久美子(通訳:Leon Ingulsrud) (劇作家4名), James Yaegashi(俳優・演出家、この企画の発案者)

このトーク・イベントは私自身も参加していたため、そのメモと記憶に基づいてご報告致します。

最初にJapan Societyの塩谷さんより、イベントの趣旨の説明と感謝の言葉が述べられた。また、このトーク・イベントがインターネットのUstreamで配信されていることが告げられた。

最初に進行役のAnne Cattane氏から、まずは一人ずつの話を聞いていくが、会話の会なので、出来るだけ観客やネットやパネラー同士の質問を中心にしたい旨が語られる。
最初はまず、発案者の八重樫氏から。
八重樫氏:現在、両親や親戚が山形におり、子どもの頃過ごし、親しんだ東北を襲った震災の被害に対して、何かしなければと思ったと語られた。実際に現地にも赴き、ボランティアに参加されたそうだが、「自分は何者なのか」と問いかけ、「そうだ、ぼくは演劇人だ」と思い、演劇人の立場で出来る支援を考えた。彼がこれまで一緒に仕事をした人たちに相談をしたら、なにか協力してくれるのではないかと考え、最初にJohn Guare氏にEメールをした。するとすぐに「何でもする」と返事が来て、他の劇作家達にもすぐに連絡をしてくれた。そうしてあっという間に劇作家と俳優達が揃ってきて、次にやる場所を考えたときに、リンカーンセンターのAnne(Cattane氏)に真っ先に相談した。連絡をしたパブリックシアターもリンカーンセンターもみな協力的だった。
Anne Cattane氏:John Guare氏の作品、『あなたまでの6人』を例に、この作品のように、この企画は、八重樫氏が声を掛けた人が次の人に声を掛けて、という形で、人間関係の広がりですぐに大きく広がっていったという話をされた。
その後、最初に集まったメンバーで6回の大規模なミーティングを行い、どんなイベントにするかを話し合っていった。最初、昨年の4月の会議の時に、PRのビデオのアイディアが出た。まずは素早く反応して、「やる」とPRすること。それから次に慎重に進めていくという二段階でいくことが決まり、1年後のイベントにするアイディアが出た。そのときに、アメリカの劇作家ギルドが大きな役割を果たしてくれた。
John Weidman氏:劇作家ギルドは組合のような組織だが、そのなかにファンドがあり、こうしたイベントに対して経済的に動くことができた。今回、最も大きかったことは、アーティストがアーティストを支援することができたということだ。
Anne Cattane氏:今回のイベントには二つの大きな特色がある。
一つはアーティストがアーティストを支援するということ。
もう一つは、TCG(Theater Communication Group)が協会のウェブサイトから戯曲のダウンロードができるようにしてくれたため、色々なところで同じ作品を同時にやることができたこと。
これからこういう方法が広がっていくかもしれない。(ここで話が、日本と独特の長い関わりを持っているJohn Weidman氏にふられる)
John Weidman氏:『太平洋序曲』を書くために、日本のことを深く知ろうとかなり勉強したが、昨日、一連の作品を観て、得難い経験をした。自分たちは新聞やテレビでニュースを知っていたが、それは冷たい情報だった。昨日の経験は、熱い人間的な感情だった。
60年代からアジアの勉強をしてきた。20年前から何度も日本で仕事をしている。ソンドハイムと一緒に、この企画のために何をすればいいか相談し、すぐに昨日演奏した『太平洋序曲』の2曲を脚色することを思いついた。最初の曲は、ペリーの黒船が来たときの日本の人々の反応を歌ったものだが、その曲を、津波を見た人々の反応に見立てて書き直した。黒船が来たときにも津波が来たときにも、「これが日本の終わりだ」と思われたのではないか。しかしそうではなかった。次の曲『NEXT』は本来、ペリー以降の日本のめざましい発展を描いているが、それを現代の日本の状況に合わせて書き換えた。James(八重樫氏)からメールが来たときに、アーティストとして答えることができて嬉しい。また、過去に『太平洋序曲』をやったアジア系アメリカ人が昨日の舞台で再会できたことも良かった。Donald(照明のHolder氏)もブロードウェイで『スパイダーマン』が終わってすぐに来てやってくれたし、Paul (音楽監督のGemignani氏)も普段はあまりこういうことはしないが、今回はすぐにやりたいと言ってきた。あまりにも早くミュージシャン達がやると言ってきたので驚いたほどだった。
Philip Kan Gotanda氏:自分は日系3世で、両親は日本から来た。日本には昔、陶器の村(益子のこと)に行ったことがある。(日本との関わりについて)
昨日、客席でした体験は、普段、自分の作品の上演を客席で観るのとは異なる経験だった。自分の作品が他の作品に埋もれてしまった。まるで自分の作品が他の全ての作品の一部であるかのようにとけ込んでいた。そのストーリィーが大事だ。
特に日本人達の作品が大切だった。作品が抽象的なものであれ具体的なものであれ、今という時限を表現しており、演劇を通して日本人が経験した痛みを共感することができた。
自分の母は日系2世で、アメリカ人として元気に育ったが、戦争によって収容所に入れられた。日本とアメリカの関係は母の中で複雑になり、母にとっての“愛国”は単純ではなくなった。
けれどももしも昨日、母があの舞台を見ることが出来たら、心のあたたかい、思いやりに溢れた心の豊かなものを感じさせるあの場にいたら、きっと、「母を引き裂いた二つの国は同じ世界の中にある」、「どちらの国を愛するかではなく、二つの国を持つ一つの世界を愛する」ことができたのではないかと思う。
John Guare氏:自分はもう一人のJohn(Weidman氏)と違って日本のことを何も知らない。どうしようと思っていたら、「君はグラント大統領が日本を訪問したことを芝居に書いているじゃないか」と言われ、自分が日本と関わりがあったということを思い出した。
グラントは19世紀に素晴らしい本を書いているが、引退してからの彼はただの酔っぱらいの将軍で、その彼になぜこんな本が書けたのかと考えた。調べてみると、グラントは当時、経済的な窮地に陥っていて、そのときに、マーク・トウェインが大金をやるから自分の生涯を書いてくれと。自分は小説を書くからと。で、マーク・トウェインは「ハックルベリィ」を書き、グラントは酔っぱらって、書くと約束したのに当時かかっていた死に至る病気のこともマークには話さず、自分の生涯のことを書いてすぐに死んだ。そこには、日本に訪問をしたとき、明治天皇がグラントに挨拶したということが書かれていた。彼が唯一、幸福だったときが日本にあった。そこで、夢のなかで、明治天皇がアメリカに来て、グラントを励まして書かせるということを思いついた。
先ほどペリーの話があったが、昨日の上演では、二つの国が1800年代から交流が始まったという芝居が、実際にあった現代の津波の芝居に挟まれるという奇妙なコンテクストの中で演じられた。グラントが日本の奇妙なことを見つけたその興味や経験が彼の人生を大きく変えたように、現代においても、お互いに出会い、ユニークな経験を共にすることで交流や変化が生まれていた。
篠原:最初に、このイベントへのお礼を改めて申し上げた。(日本でのこのイベントとの関わりを聞かれて)劇作家協会の運営委員会で坂手会長から聞いたのが最初。その後、10年来の知り合いであるジェイムズ(八重樫氏)からも頼まれて、作品の公募の書類を作るなどの仕事をしたり、日本とアメリカの実行委員会を繋ぐ仕事をした。また、「非戦を選ぶ演劇人の会」の活動を通して、被災地支援の活動をしたときの話などをかいつまんでした。(内容:避難所で会った、通学鞄一つしか持ち物が残っていないという少女のこと。毛布は送られてきたけれど、シーツを頼むのは贅沢だろうかと頼まれたこと。GPS通りに車を走らせても道が無くなる瓦礫の町と腐った魚の臭いのこと。飯舘村のひからびた田んぼと牛のいない牛舎。子どものいない村に上がっていた鯉のぼりの話などをした。)
会場からの質問:ソーシャルメディアに関わっている。同じ日に同時に、というイベントの形態が、今の時代のプロジェクトにふさわしいと思う。映像でもっと広げられるのでは? もっと広げる計画は?
Anne Cattane氏:演劇は直接的表現なので、そこにいなければ経験できないことを大事に考えている。それは何処かでやっていることを映像で送るよりももっと大事な経験かも知れない。また、自分たちのような老人のプランナーが企画を考えているので、テクノロジーの使い方が分かってないこともある。(笑)
ネットからの質問:昨日集まったのはどんな観客だったか?
答え(誰が答えたかメモになく不明):一般的なアメリカの観客だったと思う。
ネットからの質問:アメリカ人が日本人の役をやるのは違和感がなかったか? どういう気持ちを持ったか。
八重樫氏:三つの作品に出演したが、稽古は普通にアメリカ的に進められたし、東北の方言などは言葉として意識したが、特に違和感があるということはなかったと思う。
篠原:昨日の上演を観ていて、日本の農夫の役を英語で演じていただくと、日本の東北の農民ということに留まらず、アメリカにもいるごく普通の農民が突然、農地を捨てなければならなくなるという「農夫の苦しみ」として普遍的に感じられた。おそらく、人間の感情や痛みを俳優の肉体を通して繋がることで、人種や国境を越えていくのが演劇なのだと思う。
John Guare氏からの質問:日本の劇作家協会は東北の演劇人に対して何か経済的な支援をしているか?
篠原:東北は広いので、まずは現状把握するために、東北の演劇人同士が集まるためにも交通費がかなりかかる。それを支援したりしている。
John Guare氏からの質問:日本の演劇は震災を経て変わったか?
篠原:全てを把握しているわけではないが、若い人たちの作品で、震災を採り上げたり、社会に目を向けた作品が出てきたように思う。
会場からの質問:ヨーロッパにもこのイベントを広げようとは思わなかったのか?
Anne Cattane氏:時差の問題もあり、本当に同じ時間でやることに困難があった。とにかく初めてのことなので、どういう結果になるのか分からず、全米での開催で一杯一杯だった。
会場からの質問:日本でやる予定はないのか?
篠原:アメリカの人々の心に答える形で、東北での開催を予定している。
(ネットか会場かメモになく不明)質問:10分をたくさんやることにした理由は?
Anne Cattane氏:多くの人が参加するイベントにしたかったので、小品をたくさんという形にした。それに、大きな作品を1本ということにすると、誰に書いてもらうのかということが難しい問題になる。
八重樫氏:将来的にはそうした可能性もあるかもしれない。
篠原:(最後に一言とふられて)誰の言葉であったか、俳優や演劇に関わるための一番大きな才能は、「共感する才能」だと聞いたことがある。他者の痛みに共感するという才能が、演劇には最も大事な大きな才能だと。そうした意味で、今回、「他者の痛みや苦しみに共感する」という優れた才能を持つアーティストの方々に、この国で巡り会えたことが喜びだということを述べて、改めて、深く感謝致しました。

■レセプション
 レセプション会場では、主にNYで活動している日本人アーティスト達に多く声を掛けられた。震災復興のために尽力したい、東京でも開催をという声や、NYの中心部からわずか50キロ地点にある原子力発電所の問題を考えなど、たくさん声が聞けた。
(以上、報告おわり)


また、日本劇作家協会会長の坂手洋二氏からのメッセージも紹介された。
お二人のスピーチは下記の通り。

■15:00(午後の部 )リンカーンセンターシアターの劇場監督、Andre Bishop氏
本日はお忙しいところをお越しいただき、有難うございます。
一年前のこの日、多くの方々の命が奪われました。その方々への思いを胸に,しばしの黙祷をもちまして本日のプログラムを始めさせていただきたいと 思います。(黙祷)
私達は皆今日、ここニューヨークに、そしてアメリカ中至るところで、 共に協力するという意思の基に集まってきました。これは全く前例がなく、驚くべきことです。前年の春より、ニューヨークの12以上もの劇場が時間と資源を捧げ、力を合わせてこの日を実現させようと動いてきました。 このとても立派で、歴史の重みを感じさせる劇場は、 私達の今日のイベントの為に、クーパーユニオンから寄付していただきました。今日こうして私が話している間にも、国中の劇場が観客を集めて、自分達各自の震災イベントを行っております。アメリカと日本の特別に秀でた劇作家が戯曲を贈り、私達もここにニューヨーク中が羨むようなずば抜けたプロダクションチームと優れた役者達を集めました。皆、 自分の時間と 芸を惜しみなく捧げて くれました。彼らの名前は皆、プログラムに載っています。商業演劇分野の仲間達は、今日のイベントにかかった費用を担うスポンサーとなってくれました。ドラマティスト ギルドファンドは、 アーティストからアーティストへと送られる日本劇作家協会への送金方法を準備する為、早くからチームに加わってくれています。この寄付の情報はプログラムの2ページに載っていますので、今日のイベントが終わりました後に、どうかお友達に送ってあげてください。ギルドのウエブサイトでは6月1日まで寄付を受け付けています。今日皆さんが購入してくださったチケット収入は全て日本のアーティストに直接届けられます。
さて、これは日本にとってどういう意味があるのでしょうか?
東北のアーティストの声を聞いてみましょう。
(ここで、昼の部では岩手の劇作家、こむろこうじ氏の言葉が紹介されました)

■劇作家 こむろこうじ氏の原稿(原本)

「忘却と共に過去という分類に属しつつある3.11」

復興が進んでいる。
しかし、それ以上に震災の風化が加速度的に進んでいる。
何かにとり憑かれたように被災地にやってきたアーチストもボランティアも、震災前がそうだったように顔を出してくれなくなった。
人の数も少なく、お金も無い。都心部からはかなりの距離がある。そんな土地である、東北三陸沿岸部…。
縁もゆかりも無い、心がまだ元気を取り戻してはいない人のために、莫大なお金や時間を浪費する…。そんな人が、世界中にたくさんいるのならば、貧困や紛争ももっともっと解消していくに違いない。
そんなことはわかっている。わかってはいるが、あんなに駆けつけてくれたたくさんの人たちに、忘れられ、過去の存在になってしまいつつあることが、とても哀しく感じてならない。
 時は人々の心を癒してくれる。しかし、時は、まだまだ痛みを持ち続けている人をも過去の存在へと押しやってしまう。
 世界のどこかで、大きな紛争や災害がまた発生すれば、まだまだ復興途上の日本の三陸沿岸は、3.11という歴史として過去というテリトリーに刻まれる存在になってしまうであろう。
 街が消え、人が消え、文化の火が記憶の忘却と共に静かに消えようとしている。

 (スピーチ原稿の原文にはありませんが、この後、「文化の火を消さず、忘却しないために」ということを言って下さって、大きな拍手の中で、SHINSAIのリーディングは始まったと記憶しています。)

■20:00(夜の部)パブリックシアターの芸術監督、Oskar Eustis氏
 (※ 前半は、Andre Bishop氏からも紹介された、このイベントの趣旨と経過でしたので、割愛させていただきます。夜は、日本劇作家協会会長の坂手洋ニ氏からのメッセージが読まれました。)

 ここで、日本劇作家協会会長の坂手洋ニ氏からのメッセージを読ませていただきます。

■日本劇作家協会会長、坂手洋二氏のメッセージ
 3月11日は私の誕生日だ。
 東日本大震災、それに伴い起きた福島第一原発の非常事態。自分たちがたんに「被害者」であると考えることを、私は避けてきた。「3月11日を、私の、否、私たち日本人の、二度目の誕生日としなければならない」と思ってきた。だがそれは、自分で自分たちの新たな生き方を、見つけ出せればの話である。
 あまりにも早く一年が過ぎた。
 この一年間、数日に一度は、誰もが気がつく程度の「揺れ」があり、私たちはそれを、「あの日」の「余震」である、という感覚を持って受け止めてきた。私たちの意識はいつも「あの日」に戻る。
 私たちにとってまだ「あの日」は終っていない。ではいつ終わるのか。学者たちや政府が指摘するように、まもなく来ると予測されている、あの日の衝撃に劣らない「次の大きな震災」が来るその日まで、私たちは「あの日」の延長を生きているのだろう。
 私たちは、「あの日」以来、放射能による「目に見えない汚染」に晒されている。私たちは、この事態に対して正しい対応ができているかどうか、自分たちの国を監視しなければならなくなっている。例えば、日本政府が小児を対象に設定した「外部被爆のみで年間20ミリシーベルトまで許容」の基準がおかしいということを、私たちは強く指摘し続けてきた。
 津波の被災地で「この風景は、空襲との違いは人が焼けていないだけだ」と言う高齢者がいた。今回の出来事はおそらく日本にとって、江戸時代から明治時代へと転換する開国、第二次世界大戦後の変革に続く、大きな「変化」であり、私たちはその渦中にある。
 東北在住の演劇人たちは、自分の場所に踏みとどまり、地域と演劇の関係を洗いなおし、平常心を保とうとし、表現を続けている。例えば、津波から命からがら逃れ、一時は自分の家に住めなくなり、強いショックを受けて創作活動を停止していたある劇作家は、最近、被災地の子供たちと震災体験をもとにしたミュージカルを上演するほどに、ようやく回復した。
 赤十字や日本政府による復興支援のお金は被災地に届いてはいるようだが、そうした被災演劇人たちの演劇活動そのもの、稽古場さえ不足している演劇創作の環境整備、困難を極める作品制作じたいに対する補助はない。ダイレクトに演劇人に届く今回の援助は、そうした「現場」、演劇人の生活と活動の整備に役立てられるはずですあり、たいへんありがたいことである。私が会長を務める日本劇作家協会はその援助を被災地現地の演劇人の皆さんに届ける役割を委託されたわけだが、民主主義と人間の自由を守るために、その任務を確実に果たすことを約束します。ニューヨーク、そして全米の皆さまの厚情、友情に、心から感謝いたします。

■坂手氏のメッセージの紹介後、再び、Oskar Eustis氏
さて、私は集まった劇場のひとつの芸術監督にすぎませんし、誰から頼まれたわけでもないのですが、個人的に、25ドルという値段で、このイベントの為にのみ 書かれたステファン・ソンドハイムの新しい歌詞や、ダグ・ライト、フィリップ・カン・五反田、スーザンーロリ・パークスの新しい戯曲を聞く事ができるというのは、とても安いのではないかと思います。さて、まだまだお話したい事もあるのですが、今夜の素晴らしいイベントが皆さんをお待ちしています。
ここで、いつもの様に、携帯の電源を切っていただくお願いをする代わりに、私は携帯を取り出したいと思います。皆様も同様にお願いいたします。そして、テキストメッセージの機能に行きます。さあ、ここで私は27138とテキストに入れます。繰り返しますが、27138ですよ。わからない場合は、プログラムの2ページ目に書いてあります! メッセージの欄に、JAPANとタイプして、一つスペースをあけてから、番号を入れます。これはたった今、私が日本に送る追加の金額です。例えば、 JAPAN 25 というようにです。そして明日、私達、あなた達と私は、打ち込んだ金額の確認の電話を受け取ります。そして、クレジットカードの情報を送った時点で、その金額はギルドを通して日本に送られることになります。
本日はこうしてお越しいただき、私達のコミュニティと共に力を会わせてくださり、有難うございます。私達は日本のシアターコミュニティと共にここにあります。それでは、SHINSAI!
(翻訳:前芝尚子氏)

午後の部はスピーチに大きな暖かい拍手が、夜の部はリラックスした笑いとやはり大きな拍手が起こり、その拍手の中に俳優達が上手から登場し、客電が消え、舞台は始まった。

全体的に俳優が非常に上手く、速いテンポの掛け合いが見事だった。英語という言語の質やリーディングというスタイルのためもあるだろうが、俳優の演技や演出も日本語で読んだ印象よりも乾いた良さがあり、笑いも多く、会場全体が暖かった。それでいてクライマックスの緊張は高く、決してウェットではないのに、言葉や感情がストレートに入ってきてドラマに引き込ませてくれる。日本の作品はみな評判がよく、終演後、観客から「日本の現実を初めて知識としても感情的にも実感した」という声もいただいた。
昼の回の最後と夜の回の最初に、この企画のためにSondheim氏が歌詞を書き換えてくれた『太平洋序曲』からの2曲の歌と演奏があったが、これは圧巻だった。「海を見ろ」
と黒船が来ることを告げるシーンの歌詞が「Great black mountain churning water(水が渦巻く黒い山)」となっていた。津波を経験した子どもたちの作文に「つなみはくろく、くさかった」という文があった記憶があり、ソンドハイム氏はそれをなにかで知っていたのだろうかと考えた。迫力あるタッチでクレッシェンドするピアノとドラムは押し寄せる津波を思わせ、海面が膨れ上がるシーンが目に浮かび、肌が泡立った。セリフも津波から逃げ惑う人々や津波による被災の事実に書き換えられ、臨場感あふれる歌とセリフで、出演者全員によって演じられた。2曲目の ”NEXT” は、まさに震災からの日本の復興を信じるように力強いコーラスで歌われ、曲が終わると文字通り、割れんばかりの拍手に包まれた。スタンディング・オベーションもあった。
 昼の終演後、講堂を出て最初に出会ったJohn Weidman氏に感謝の言葉を述べると、「これがアメリカの心です」と言っていただいたことが印象的だった。
夜の回のラスト・ソング“THE SKIN OF OUR TEETH”はOlivia OgumaとPatti Luponeによって歌われた。Pattiのソロは観客のみならず、共演者やスタッフも含めた劇場全体の空気を魅了して、このイベント全体の最後を見事に飾っていた。
プログラムの組み方も良かったのだろうが、翌日のトーク・イベントで、「全体で一つの作品のようだった」という声があったことからも分かるように、一体感のある非常にいい舞台だった。
夜の終演後、楽屋に駆けつけ、八重樫氏に通訳をしていただき、その場にいらした出演者全員とスタッフたちに感動と感謝を伝えた。それぞれの仕事の都合でこの場に来られなかった日本の劇作家たちが一番伝えたかったであろう感謝の気持ちと、昨年の4月から10回以上訪れた被災地で、優れたパフォーマンスが人々を元気づけることを見てきたひとりとして、この素晴らしい舞台と「アメリカの心」を、日本の心はしっかりと受け止め、今もなお困難の中にある被災の地の人々に伝えたいと思うと、深く深くお礼を述べた。
(次回へつづく)

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