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ながめのよい村。
夏。夕暮のちょっと前。
どうしてだろう、緑の多さと花の多さと、どうしてこんなに美しく見えるのだろう。
この人の住む風景が、とくべつな風景に見えた。岩手と青森の県境あたり。
報告の続きです。
劇作家、篠原久美子さんの文章です。
………………………………
3月12日(月)
時差ぼけのせいか朝5時に目覚めてしまい、昨日の舞台の様子をレポートにまとめたり、メールで日本の劇作家達に報告したりして、午後からJapan Societyに赴く。
河原その子さんと久しぶりの再会を果たし、フォーダム大学での学生達によるリーディングの様子を詳しく伺う。また、学生達の脚本の感想や、現地でのこのイベントの報道、震災全般に関するアメリカでの反応などのお話を伺う。
その後、山本さん、塩谷さんとお会いし、通訳のLeon Ingulsrud氏をご紹介いただく。
先にIngulsrud氏と打ち合わせをし、その後参加者全員での打ち合わせをして、19:00からAuditoriumでトーク・セッション“SHINSAI : THE CONVERSATION-THEATER ARTISTS RESPOND TO THE EARTHQUAKE IN JAPAN”が始まった。会場にはすでに50名くらいの人が入っていた。
参加者は下記の通り
Anne Cattaneo(リンカーンセンターシアター「ディレクターズ・ラボ」のディレクター:全体の進行役を務めてくださいました),John Weidman, John Guare, Philip Kan Gotanda, 篠原久美子(通訳:Leon Ingulsrud) (劇作家4名), James Yaegashi(俳優・演出家、この企画の発案者)
このトーク・イベントは私自身も参加していたため、そのメモと記憶に基づいてご報告致します。
最初にJapan Societyの塩谷さんより、イベントの趣旨の説明と感謝の言葉が述べられた。また、このトーク・イベントがインターネットのUstreamで配信されていることが告げられた。
最初に進行役のAnne Cattane氏から、まずは一人ずつの話を聞いていくが、会話の会なので、出来るだけ観客やネットやパネラー同士の質問を中心にしたい旨が語られる。
最初はまず、発案者の八重樫氏から。
八重樫氏:現在、両親や親戚が山形におり、子どもの頃過ごし、親しんだ東北を襲った震災の被害に対して、何かしなければと思ったと語られた。実際に現地にも赴き、ボランティアに参加されたそうだが、「自分は何者なのか」と問いかけ、「そうだ、ぼくは演劇人だ」と思い、演劇人の立場で出来る支援を考えた。彼がこれまで一緒に仕事をした人たちに相談をしたら、なにか協力してくれるのではないかと考え、最初にJohn Guare氏にEメールをした。するとすぐに「何でもする」と返事が来て、他の劇作家達にもすぐに連絡をしてくれた。そうしてあっという間に劇作家と俳優達が揃ってきて、次にやる場所を考えたときに、リンカーンセンターのAnne(Cattane氏)に真っ先に相談した。連絡をしたパブリックシアターもリンカーンセンターもみな協力的だった。
Anne Cattane氏:John Guare氏の作品、『あなたまでの6人』を例に、この作品のように、この企画は、八重樫氏が声を掛けた人が次の人に声を掛けて、という形で、人間関係の広がりですぐに大きく広がっていったという話をされた。
その後、最初に集まったメンバーで6回の大規模なミーティングを行い、どんなイベントにするかを話し合っていった。最初、昨年の4月の会議の時に、PRのビデオのアイディアが出た。まずは素早く反応して、「やる」とPRすること。それから次に慎重に進めていくという二段階でいくことが決まり、1年後のイベントにするアイディアが出た。そのときに、アメリカの劇作家ギルドが大きな役割を果たしてくれた。
John Weidman氏:劇作家ギルドは組合のような組織だが、そのなかにファンドがあり、こうしたイベントに対して経済的に動くことができた。今回、最も大きかったことは、アーティストがアーティストを支援することができたということだ。
Anne Cattane氏:今回のイベントには二つの大きな特色がある。
一つはアーティストがアーティストを支援するということ。
もう一つは、TCG(Theater Communication Group)が協会のウェブサイトから戯曲のダウンロードができるようにしてくれたため、色々なところで同じ作品を同時にやることができたこと。
これからこういう方法が広がっていくかもしれない。(ここで話が、日本と独特の長い関わりを持っているJohn Weidman氏にふられる)
John Weidman氏:『太平洋序曲』を書くために、日本のことを深く知ろうとかなり勉強したが、昨日、一連の作品を観て、得難い経験をした。自分たちは新聞やテレビでニュースを知っていたが、それは冷たい情報だった。昨日の経験は、熱い人間的な感情だった。
60年代からアジアの勉強をしてきた。20年前から何度も日本で仕事をしている。ソンドハイムと一緒に、この企画のために何をすればいいか相談し、すぐに昨日演奏した『太平洋序曲』の2曲を脚色することを思いついた。最初の曲は、ペリーの黒船が来たときの日本の人々の反応を歌ったものだが、その曲を、津波を見た人々の反応に見立てて書き直した。黒船が来たときにも津波が来たときにも、「これが日本の終わりだ」と思われたのではないか。しかしそうではなかった。次の曲『NEXT』は本来、ペリー以降の日本のめざましい発展を描いているが、それを現代の日本の状況に合わせて書き換えた。James(八重樫氏)からメールが来たときに、アーティストとして答えることができて嬉しい。また、過去に『太平洋序曲』をやったアジア系アメリカ人が昨日の舞台で再会できたことも良かった。Donald(照明のHolder氏)もブロードウェイで『スパイダーマン』が終わってすぐに来てやってくれたし、Paul (音楽監督のGemignani氏)も普段はあまりこういうことはしないが、今回はすぐにやりたいと言ってきた。あまりにも早くミュージシャン達がやると言ってきたので驚いたほどだった。
Philip Kan Gotanda氏:自分は日系3世で、両親は日本から来た。日本には昔、陶器の村(益子のこと)に行ったことがある。(日本との関わりについて)
昨日、客席でした体験は、普段、自分の作品の上演を客席で観るのとは異なる経験だった。自分の作品が他の作品に埋もれてしまった。まるで自分の作品が他の全ての作品の一部であるかのようにとけ込んでいた。そのストーリィーが大事だ。
特に日本人達の作品が大切だった。作品が抽象的なものであれ具体的なものであれ、今という時限を表現しており、演劇を通して日本人が経験した痛みを共感することができた。
自分の母は日系2世で、アメリカ人として元気に育ったが、戦争によって収容所に入れられた。日本とアメリカの関係は母の中で複雑になり、母にとっての“愛国”は単純ではなくなった。
けれどももしも昨日、母があの舞台を見ることが出来たら、心のあたたかい、思いやりに溢れた心の豊かなものを感じさせるあの場にいたら、きっと、「母を引き裂いた二つの国は同じ世界の中にある」、「どちらの国を愛するかではなく、二つの国を持つ一つの世界を愛する」ことができたのではないかと思う。
John Guare氏:自分はもう一人のJohn(Weidman氏)と違って日本のことを何も知らない。どうしようと思っていたら、「君はグラント大統領が日本を訪問したことを芝居に書いているじゃないか」と言われ、自分が日本と関わりがあったということを思い出した。
グラントは19世紀に素晴らしい本を書いているが、引退してからの彼はただの酔っぱらいの将軍で、その彼になぜこんな本が書けたのかと考えた。調べてみると、グラントは当時、経済的な窮地に陥っていて、そのときに、マーク・トウェインが大金をやるから自分の生涯を書いてくれと。自分は小説を書くからと。で、マーク・トウェインは「ハックルベリィ」を書き、グラントは酔っぱらって、書くと約束したのに当時かかっていた死に至る病気のこともマークには話さず、自分の生涯のことを書いてすぐに死んだ。そこには、日本に訪問をしたとき、明治天皇がグラントに挨拶したということが書かれていた。彼が唯一、幸福だったときが日本にあった。そこで、夢のなかで、明治天皇がアメリカに来て、グラントを励まして書かせるということを思いついた。
先ほどペリーの話があったが、昨日の上演では、二つの国が1800年代から交流が始まったという芝居が、実際にあった現代の津波の芝居に挟まれるという奇妙なコンテクストの中で演じられた。グラントが日本の奇妙なことを見つけたその興味や経験が彼の人生を大きく変えたように、現代においても、お互いに出会い、ユニークな経験を共にすることで交流や変化が生まれていた。
篠原:最初に、このイベントへのお礼を改めて申し上げた。(日本でのこのイベントとの関わりを聞かれて)劇作家協会の運営委員会で坂手会長から聞いたのが最初。その後、10年来の知り合いであるジェイムズ(八重樫氏)からも頼まれて、作品の公募の書類を作るなどの仕事をしたり、日本とアメリカの実行委員会を繋ぐ仕事をした。また、「非戦を選ぶ演劇人の会」の活動を通して、被災地支援の活動をしたときの話などをかいつまんでした。(内容:避難所で会った、通学鞄一つしか持ち物が残っていないという少女のこと。毛布は送られてきたけれど、シーツを頼むのは贅沢だろうかと頼まれたこと。GPS通りに車を走らせても道が無くなる瓦礫の町と腐った魚の臭いのこと。飯舘村のひからびた田んぼと牛のいない牛舎。子どものいない村に上がっていた鯉のぼりの話などをした。)
会場からの質問:ソーシャルメディアに関わっている。同じ日に同時に、というイベントの形態が、今の時代のプロジェクトにふさわしいと思う。映像でもっと広げられるのでは? もっと広げる計画は?
Anne Cattane氏:演劇は直接的表現なので、そこにいなければ経験できないことを大事に考えている。それは何処かでやっていることを映像で送るよりももっと大事な経験かも知れない。また、自分たちのような老人のプランナーが企画を考えているので、テクノロジーの使い方が分かってないこともある。(笑)
ネットからの質問:昨日集まったのはどんな観客だったか?
答え(誰が答えたかメモになく不明):一般的なアメリカの観客だったと思う。
ネットからの質問:アメリカ人が日本人の役をやるのは違和感がなかったか? どういう気持ちを持ったか。
八重樫氏:三つの作品に出演したが、稽古は普通にアメリカ的に進められたし、東北の方言などは言葉として意識したが、特に違和感があるということはなかったと思う。
篠原:昨日の上演を観ていて、日本の農夫の役を英語で演じていただくと、日本の東北の農民ということに留まらず、アメリカにもいるごく普通の農民が突然、農地を捨てなければならなくなるという「農夫の苦しみ」として普遍的に感じられた。おそらく、人間の感情や痛みを俳優の肉体を通して繋がることで、人種や国境を越えていくのが演劇なのだと思う。
John Guare氏からの質問:日本の劇作家協会は東北の演劇人に対して何か経済的な支援をしているか?
篠原:東北は広いので、まずは現状把握するために、東北の演劇人同士が集まるためにも交通費がかなりかかる。それを支援したりしている。
John Guare氏からの質問:日本の演劇は震災を経て変わったか?
篠原:全てを把握しているわけではないが、若い人たちの作品で、震災を採り上げたり、社会に目を向けた作品が出てきたように思う。
会場からの質問:ヨーロッパにもこのイベントを広げようとは思わなかったのか?
Anne Cattane氏:時差の問題もあり、本当に同じ時間でやることに困難があった。とにかく初めてのことなので、どういう結果になるのか分からず、全米での開催で一杯一杯だった。
会場からの質問:日本でやる予定はないのか?
篠原:アメリカの人々の心に答える形で、東北での開催を予定している。
(ネットか会場かメモになく不明)質問:10分をたくさんやることにした理由は?
Anne Cattane氏:多くの人が参加するイベントにしたかったので、小品をたくさんという形にした。それに、大きな作品を1本ということにすると、誰に書いてもらうのかということが難しい問題になる。
八重樫氏:将来的にはそうした可能性もあるかもしれない。
篠原:(最後に一言とふられて)誰の言葉であったか、俳優や演劇に関わるための一番大きな才能は、「共感する才能」だと聞いたことがある。他者の痛みに共感するという才能が、演劇には最も大事な大きな才能だと。そうした意味で、今回、「他者の痛みや苦しみに共感する」という優れた才能を持つアーティストの方々に、この国で巡り会えたことが喜びだということを述べて、改めて、深く感謝致しました。
■レセプション
レセプション会場では、主にNYで活動している日本人アーティスト達に多く声を掛けられた。震災復興のために尽力したい、東京でも開催をという声や、NYの中心部からわずか50キロ地点にある原子力発電所の問題を考えなど、たくさん声が聞けた。
(以上、報告おわり)
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