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戯曲の講読、上演許可の連絡などは office白ヒ沼 までどうぞ。
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悪戦苦闘
ワークショップを二日がかりでしてます。
写真は二口大学さんにお願いした身体つくりのコーナー。
張り切った二口さん、かなり難しい課題を持ってきました。さおを指して舟をこぐ、なんて。なかなかスムーズにできるものではありません。
が、なんとかかんとかやっつけてくれる適応力のある役者さんもいて、……感心感心。やるなひろしま。
で、そのあと延々と鈴江がいろんな無理難題を役者さんたちにおねがいして。
感じのいい小劇場の空間は油断ならない非情のリングと化しております。
泣いてはならぬ。涙はおつかれさま、そしてさよならのあとに流すもの。
泣いてはならぬというのに。皆笑ってる。いいのかこれで。いいのだこれで。
演劇はプレイだから。遊んで、そして泣くのだ。いや泣いてはならぬ。ならぬのだ。
PR
ba7c3e11jpeg近代美術館、MOMAの休憩場所には大きな窓があって。そこからパチリ。
ビルが、でたらめのようででたらめじゃないのだ。無秩序のようで無秩序じゃない。
様々な形の屋根が確かにそこには並んでる。だけど、並んだときに う と美を感じるように、なってしまってる。
あれは、偶然だけじゃない。そう見える。狙わないで、図らないでああいうふうにできるものではない。そう思える。
金儲け主義、金が第一主義、拝金主義、資本主義の権化、っていうのは悪口のいいすぎだ、といいたくなる、この違い。違いとは、京都の町並みとの違いのことだ。東京の町並みとの違いのことだ。人々が、自分のビルがやすく建つように、とか、目立つように、とか、そういう自分のことばっかり考えて、それ以外のことは考えないでビルを建てると、集まると京都になる。東京になる。無秩序、醜い。でもニューヨークの彼らには余裕がある、というだけじゃない、見識がある。といいたくなる。はからいがある。目に入ってくるものは美しいほうがいいじゃないの?と当然のように考えるからこうなるのだ、といいたい。
日本の街も、なんとかしましょう。
電柱、埋めましょう。ビルは、勝手に建てられないように条例を作って。美観は街にとって無形の財産だ、その優先順位は高いのだ、ということにしようよ。

とうなっていた休憩場所の足踏み。
昼ノ月ワークショップが終わって。
二口君のからだの感覚に敏感になろうとする志にまいどながら感心する。
自分の身体が何とか自由にならないか、いや、自由にならない範囲を繊細に知ろうとするそのこころざし。
導かれて、受講する人たちの集中も見事だ。
集中するその人たちの姿が見事だ、というのがまた不思議なワークショップの美。

訓練をつんだ役者たち。知的な訓練も相当つんだ役者たちが、台本にとりくんでくれる。機知が効いたやりとり。会場は小さな、いかにもny然とした機能第一、という外観のもので、役者が質素で簡単なステージの上で勝負する。役者の勝負だ。
……緊張した。そして、手に汗握り、感心し、納得し、……考えた。これ見て考えない劇作家はいない。そうとしか形容できない。
nyの空は青く、京都や大阪と比べればはるかにゆったりした広い歩道を人がゆったりと往復していて、様々な人種がゆったりとそこにいて。この街が生き馬の目を抜く激しい経済競争の世界の中心だとは思えないような遊びがいっぱいの街で。
資本主義の横暴に抗議する!とかいう主張は曲げないぞ。しかし、総本山の余裕は相当なものだなあ、と感心する。
このドラマリーディングが、上演につながればいいなあ。祈りながら、帰りの飛行機に乗ったのだった。

本番中の写真はやっぱりとれないのだけれど、写真はその直後のアフタートークのもの。鈴江が左、右は演出のジェイムズ八重樫さん。
あわただしい日々。
木曜日からニューヨークに行く。
「ともだちが来た」が翻訳され、そのリーディング公演があるのだ。
土曜日にトランクを買った。どうせだから、と大きな奴。大きすぎたか……と私の物書き部屋の面積を支配する銀色の奴を眺めながらつぶやくほかない。

リーディング、というのは欧米では上演の準備段階として行われるおためし企画、とでもいう感じの企画だ。上演はまだ未定。翻訳をしてくれたジェイムス八重樫さんが演出を担当する。ジェイムスは俳優だ。nyで活躍し、ブロードウエイのストレートプレイに出演するのを観劇させてもらったこともある。日本育ちの米国ny在住、小さい頃は家では日本語、学校では英語を使っていたという日米両語のネイティブスピーカー、きちんと米国nyで俳優教育を積み重ねたバリバリの俳優さんだ。彼の翻訳は文学者がするような言葉を重々しく扱いすぎるやり方ではなく、学者がするような逐語訳からそれることを恐れすぎるやり方でもなく、作家がするような自分流の情緒に染めあげるようなやり方でもなく、いかにも俳優がするようなやり方、つまりすぐれて演劇的だ。舞台の上で俳優が吐くとどうなるのか、を常に気にしたやり方。舞台の上で成立する対話になっているか?ナチュラルな日常語に徹しすぎるのではなく、舞台の上で魅力を発する創作、という危うい線をキープしているのか?という配慮を感じる仕事。
……いや、英語がネイティブでもない鈴江にそんな違いがわかるのか?わかる、と言いたい感じなのだこれが。いくつか英語圏、ドイツ語圏でのリーディングを見てきた印象で、どこかにいくつかの違和感を持って帰ってきた。もちろん、日本語の上演では実現できなかったヒット、も含めて。誰に聞いてももやもやとしたままの、明快な回答が得られなかった疑問に、初めて爽快に答えをくれたのが彼だ。
彼と出会ったのは数年前、米国nyで行われた「Fireflies」(邦題「髪をかきあげる」)のリーディング。東洋系米国人俳優を集める、という演出意図に基づいて集められた俳優の中に彼はいた。稽古場。立ち会った私が感想を求められ、日本語でぼそぼそ喋っているとまだ英語に訳される前から笑っている俳優がいる。彼は謙遜交じりのやけくそ皮肉なニュアンス交じりの私の日常日本語のニュアンスをきちんと笑ってくれるほどの日本語使いだったのだ。
ny滞在中に私は彼をつかまえて、片っ端から聞いた。英語と日本語を並べたときに感じていたほんのささいな、たくさんの微妙な疑問を。彼は逐一教えてくれた。なるほど!やはり!なるほど!そりゃ無理だ!なるほど!それが伝わってなかったのか!などなど、びっくりマークが私の中で何回もはじけた。
彼と座っていた明るい公園のベンチの緑を今でも覚えてる。

そんな彼に翻訳してみてほしくて、帰国後早速頼んだのが「ともだちが来た」だったのだ。彼の翻訳はきっとすごくさえてるに違いない。手にした英語がどこまでさえたものになってるのか、は実は私の英語力では読んだだけの段階ではよくつかめなくて。リーディングを見るとありありわかるのだけれど。

彼が演出まで担当して実現してくれるこのリーディングに申し訳ないけれど大変大変期待している。小さな小さないかにも「ニューヨークな」リーディング会場だというのだけれど、私はどきどきしてる。

 http://www.aaww.org/aaww_events.html

Friday, November 16, 7PM .

"My Friend Has Come" by Toshiro Suzue
A staged reading, directed by James Yaegashi


写真は大文字山の大の字の真ん中から見下ろした京都の街。日没。
nyでも日没は日没だろうか。そりゃ日没だろう。日が沈む。ここでも。あそこでも。

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