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私の台本を上演してくれる人たちがいる。東京で上演される。
もうほんとにうれしい限りだ。
劇作家にとって、上演を実現してくれるほどうれしいことはない。
書かれただけで普通の文芸作品は完成するはずなのに、劇作家にとっては書かれた文字では未完成なのだ。つまりなんだろう。杉の木切ってる きこり みたいなものかもしれない。木を切り出すのが仕事。そして、その木の生きのよさには自信があるんだけど、要するにそれを受け取った大工さんの腕前がきっとよくしてくれるだろう、家を、……と願いながら人に手渡す、ってな感じだろうか。
祈るように大工さんの仕事の勢いに期待する。今、そういう空気の中を歩いてます。
男たちが熱く熱く汗をかく芝居、私の作品としては珍しい汗臭くて室内暑くて冬でも冷房が要りそうな熱を発する芝居。どうか皆さん東京まで見に行ってあげて下さい。
短い命をもやしつくす。
<Tsuchipro第6回公演>
おとこたちの
そこそこのことと
ここのこと
【作】
鈴江俊郎
【演出】
勝俣美秋
(芝居工場わらく)
【企画制作】
Tsuchipro
【出演】
土屋士
高須誠
小野孝弘
中川香果
加藤竜治
林征生
・
なすび
(ワタナベエンターテインメント)
甲斐政彦
(StudioLife)
・
【期間】
2008年5月28日(水)~
6月1日(日)8ステージ
【劇場】
ウエストエンドスタジオ
(東京都中野区新井5-1-1)
【チケット】
3.500円(前売・当日共通)
全席自由・日時指定(整理番号付)
【前売開始】
4月27日(日)
【あらすじ】廃部が決まった社会人野球のクラブハウス。取り壊しの決まったロッカールームに選手たちが片付け物をしに来る。彼らは次に行くチームもない。夢をあきらめ、平凡なサラリーマンになるのだ。プロになりたかった。プロになった同期のあいつはきらめいている。でも俺はもう終わるんだ。…そこそこがんばったのは間違いない負け組おとこたちの胸の中。ここのこと。離れて見るとこっけいな人間模様。近づいて見たらそこには…………
【制作窓口】
info@g-atlas.jp
090-8465-2296
◆Tsuchipro公式ウェブサイト
http://www.tsuchipro.com/
◆ツチブログ-好球筆打-
http://blog.livedoor.jp/tsuchipro_blog
しかし無事、と言ってよいのか。たたき、仕込み、バラシ、と作業に告ぐ作業の日々の間に行われる本番。すっかり指先もてのひらも木材の破片が小さく刺さって穴だらけ。抜いたあとだらけ。指先をインパクトドライバーで間違ってぐりぐりしてしまって皮膚が破れ、その皮膚が硬くなって、……こうやってキイボードをたたく指も痛いのです。
嵐のように上演は終わり、とおい日にみた夢のようにしか思い出せない今日なのに、指先のジンジンしみる痛みだけは、なまなましくお芝居がたった昨日の出来事だったと私に教えます。
風のように流れて消えてしまうのが上演。消えてしまうのが演劇の作品。
今日、格闘して作った舞台美術を処理場に捨てにいって、捨てて、目の前でバリバリと大きなブルドーザーがそれを木っ端微塵に噛み砕いていく……その様子を見ながら、またかみしめました。
演劇は風。人生もまた風なのかも。
見てくださった皆さん、ありがとうございました。
協力してくださった皆さん、ありがとうございました。
またやります。よろしくお願いします。
昼ノ月「顔を見ないと忘れる」では私のシゴキを受けてくれた女優押谷裕子が、こんどは演出押谷裕子となって役者の私をしごく。そんな日々だった。それがいよいよ、明日と明後日には終わる。
長いようで短いような、そしていつの間にか、夢中になってやってる間に冬は終わり、……冬の終わりはよくわからないうちに、今年の冬はもう終わってしまう。
自分の台本をきちんと上演の形式に立体化するのは初めて、という彼女の脚本家デビュー、演出家デビューなのだ。私は緊張する。自分のその時期のことを思うと、そりゃもう途方もなく緊張したものだからだ。
もちろん舞台では私が緊張して演じている。
しかし客席の後ろの暗闇ではデビューの演出家が負けないくらい緊張していることを、気づかれないように。リラックス、リラックス、押谷。
また雪だ。
うれしくってたまらない。
ほんとに雪国の人にはもうしわけないのだけれど、
雪が積もるたびに僕の家の近所では形の悪い雪だるまが軒先にいくつも出現して、その家にはちっちゃい子がいるんだぞ、ということを示してくれる。
雪だるま、ってよんでもいいような形の真ん丸いふくよかそうなものを、残念ながら今年に入ってから僕は目撃したことがない。雪イワ、雪げんこつ、雪ぎざぎざ、雪つちまみれ、そんな名称で呼んだほうが「ああ。さっきみたあれ?」って了解してもらえそうな、そんな雪のかたまり。
あきないのだ。きっとあの子たちも。降るたびに「うわーい」ってな調子で外に飛び出してしまう。で、さんざん苦労したあげくにいびつな形の雪げんこつしかできあがらなかったけれどなんだか不当にも彼らは満足し、そしてその場を去っていく。気づかなかったけれど指先はもうほとんどしびれたみたいに冷たくなって。雪って氷の小さい粒だったのだ。
街がやさしく真っ白になる。
細い自転車のタイヤが真ん丸く太くなる。
下から見上げると、そんなことをしでかしにくる奴らの意志を感じる。
まるで雪の日しかここにはないみたいな写真の並べ方になってしまって申し訳ないけれど、
雪の日は気持ちいいのです。雪国の人でさえ、雪はきれいだと思う、ということがあると最近知ったから、ちょっと勇気が出る。雪の日の景色はよいなあ。
私の母親も父親も雪国育ちで、雪を恨むような発言ばかり小さい頃から聞いていたから、世の中の半分くらいの人は心のそこから嫌いなのだろう、と遠慮しながら白を楽しんでいたのだけれど、最近、母が「私は目が悪い」という。いや全然視力で困ったことのない人だ。「雪を見つめすぎたから。小さい頃。だから雪の日はまぶしくてものが見えにくい」と。見つめすぎたって?嫌いなのに?「……大好きやなあ。雪景色。」できすぎたような、テレビのたびのコマーシャルみたいな台詞を吐きました。びっくり。
まぶしい晴れの日に真っ白な雪の中で遊びまくると「目が焼ける」というような状態になるという。母の目は小さい頃そういうことになって、それ以来苦手なのだ、という。だけどそれは「見たいけれど見ちゃいけないストレス」というような苦手具合なのだ。
雪が嫌い、ってつまりそういう具合の嫌いさなのだということか?
いや、複雑で雪国の人の気持ちはそれでもつかみきれない、はかりしれない。
雪国にいる友にやたら「どんなことになってる?」とメールで聞きまくってしまうこのごろ。
私の近所は真夜中、雪が降るとこんなんなってます。