戯曲の講読、上演許可の連絡などは office白ヒ沼 までどうぞ。
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Philippine Daily Inquirerという新聞に12月13日に掲載されたこの「ともだちが来た」の劇評も送ってもらったので、貧弱な英語の力で訳してみようと思う。カルロ・リベラ4世、って訳せばいいんだろうか。Carlo Rivera IVという記者の書いた文章だ。
このフィリピン デイリー インクワイヤラーという新聞は、なんとフィリピンでは一番の全国紙。A leading newspaper in the Philippines. Available both in print and online. Updated daily and circulated nationwide.ということらしいから大変なものなのだ。
http://lifestyle.inquirer.net/179583/my-friend-has-come-is-awkward-moving-beautiful
ここから記事だ。日本語、英語の順番に載せようと思う。
……………………………………………
「ともだちが来た」はぎこちなくて、感動的で、美しい。
――「ともだちが来た」は見る人がうけとりたいようにうけとればよい、とする劇だ。すてきな知的なる劇だ。禅なのだ。
‘My Friend Has Come’ is awkward, moving, beautiful
THE PLAY IS NOT PUSHY ABOUT WHAT YOU TAKE AWAY FROM IT. IT'S COOL. IT'S ZEN
鈴江俊郎は見るものに挑むものを書く。数年前に上演された「髪をかきあげる」では、観客に考えさせた。孤独とはどんなことか、他の誰からも隔絶されてしまうということはどんなことか、日常の風習や社会のなに気ない習慣がどれだけ人が結びつきあおうとする試みを妨げ、あるいは助けるか、というようなことを。
「ともだちが来た」は木曜に上演が始まり、今日の夜8時にバヘイン・シニングにあるディート劇場で最終日を迎える。この劇でもそのテーマは共通だ。しかしこの劇ではさらに前作より緊密な焦点をもち、さらに複雑な様相を加えている。
“My Friend Has Come,” which opened only Thursday and has its closing performance today, 8 p.m., at Dito: Bahay ng Sining, is similar in theme, but has a tighter focus and an additional layer of complexity.
演出家リッキー・アバド氏は劇中の象徴的なものをより鋭く扱おうとしている。茶の入ったコップや柿の木は、一見したところそれは必ずしも明確ではないけれど、劇の中ではいくつもの意味を持って浮かび上がってくる。私は、最小限の装飾に徹する舞台美術が特に気に入った。それはなにか日本でのこの劇の上演のオリジナルな表現にとても忠実で、その核心をとらえているものではないだろうか。
Director Ricky Abad shows a keen eye for symbolism in this play, as little things like a bottle of tea and a Persimmon tree acquire multiple meanings, not all apparent at first glance. I was particularly pleased with the minimalist aesthetic, something very true to the Japanese origins of the play.
緊密で、含みが豊かで、
――奪うものはまず勝つ。
Tight, nuanced
Spoilers ahead.
この劇の本当の強さは、作品の軸に据えられた、緊密に構成された人間関係にある。劇の始まりでは、主人公が床の上で身もだえしている。ほとんど正気ではない様子でとりとめもなくホコリやありについてなにかうわごとを言っている。彼のともだちが自転車でやってきた時、観客はどうやら二人は再会を喜び合うべき状況なのだなとやっと知る。――しかし、二人のうまくやりとりしようとする試みや、親しみのある身振りをふりしぼってうまく挨拶しようとする試みは、すべてうまくいかない。
The true strength of the play is its tight, focused central relationship. The play begins with our protagonist writhing and all but insane on the floor, raving about ants and dust. When his friend arrives on a bicycle, the play somehow manages to communicate that these two should be glad to see each other—yet their attempts to communicate and establish friendly gestures and rituals all backfire.
その後に続くのは、私が過去にほかの舞台では見たことがないほど感情的な肉体的なパフォーマンスだ。この劇では物語を伝えるために迷うことなく肉体を駆使し、性的なコメディを客にぶつけていく。そして一人の若い男がともだちの自殺のことで苦しんでいる、という表面に現れた筋だけではなく、それを超えてもっと内面の深くにある悲しみを伝えてくる。
What follows is one of the most intensely physical performances I have ever seen on the stage. The play is unafraid to use and then subvert sexual comedy, to tell stories through body language, and to imply deeper levels of tragedy and connection beyond the surface meaning of a young man tormented by a friend’s suicide.
台詞や仕草で同時にいくつもの意味を伝えるために、劇はニュアンスの微妙さに重点を置くことになる。しかし「ともだちが来た」ではひとつの場所、二人の登場人物でそれをなんとか表現するのだ。同性愛的な感情が二人の底層にあるのだろうか?ともだちの自殺は心の病によるものなのだろうか?
It takes a nuanced play to be open to multiple interpretations, but “My Friend Has Come” manages it with one setting and two characters. Was there an undercurrent of homosexual attraction between the protagonists? Was the friend’s suicide driven by mental illness?
この劇の特長は、観客がそれを決めるところにある。「ともだちが来た」は見る人がうけとりたいようにうけとればよい、とする劇だ。すてきな知的なる劇だ。禅なのだ。
The beauty is that the audience gets to decide. “My Friend Has Come” is not pushy about what you take away from it. It’s cool. It’s Zen.
そしてこの劇はショックを与えることもいとわない。剣道の試合はびっくりするほど暴力的で、悪意を募らせるというよりは悪意を吐き出すようなところがある。回想シーンのセックスは客を不愉快に身もだえさせてしまう。しかしいちばんひどいショックは、二人の友情に暗い影をなげかける予想外な場面にやってくる。
――奪う者は死ぬ。
And yet it’s not afraid to shock. The Kendo matches are shockingly violent yet somehow vent malice rather than building it. The flashback sex scene will have the audience squirming uncomfortably, but the real shock comes at an unexpected moment, casting a shadow on the characters’ friendship.
End of spoilers.
敬意に満ちた描写
「ともだちが来た」はすぐれた作品だけがなしうることをなしとげている。この作品は客観的に傷つけられた登場人物に客を共感させてしまう。実生活ではこんな人とは一緒に住むのはできれば避けたいと誰もが思うような人物をとりあげて、しかもその人物のために泣かせてしまう。そんなすごい仕事がなしとげられたのだ。
Respectful portrayal
“My Friend Has Come” accomplishes something only the best stories do: it manages to make you sympathize with characters who are objectively flawed. It is a great feat to take a person you would not happily share a room with in real life and make you weep for him all the same.
最後の場面で、登場人物はなんとか成長することになる。けれど、それは安らぎを得たり、傷をいやすような陽光や虹を手に入れるようなことではない。これは回復の始まりであって、終わりではない。そして私には、これこそが敬意を払って哀しみをうけとめる人の哀しみの描き方ではないのか、と思える。神が出現したりハッピーな歌を歌うことによってなにかを失った悲しみをむりやり押しつぶすようなことで人は回復したりしない。そんなのは人々のリアルな姿ではない。それをこの劇は心得ているのだ。
Even at the end, the characters manage to grow without necessarily finding peace or replacing their very real flaws with sunshine and rainbows. This is the beginning of a recovery, not the end, and this to me is a very respectful portrayal of grief. You don’t recover from crushing loss with an epiphany and a happy song. That’s not how real people work. The play gets this.
スカイ・アブンドと、ミギュエル・アルメンドラスという二人の若い俳優は明らかにその若さには重すぎる課題をよくこなした。恐れ知らずの挑戦と、献身的な姿勢はすばらしい。劇中、終始続い
たほんものの日本楽器の生演奏もまたこの劇を引き立てた大手柄だったとたたえたい。
Young actors Sky Abundo and Miguel Almendras play their obviously taxing roles with fearlessness and dedication. Special credit should also be given to the live, authentic Japanese string music played throughout the play.
この「ともだちが来た」がこの10倍大きな予算や規模で行われなかったことを私は喜びたい。この小規模な上演だからこそ、ありきたりの表現を避けられたのだ。この小ささだからこそ、ともだちを失ったことを本当にあったことのように感じて客は泣けた。ラストシーンの曖昧さは、現実のように曖昧だった。それらはすべて最小限の装飾に徹した舞台美術だったからこそだ。
I was happier with “My Friend Has Come” than I was with other productions with 10 times the budget and publicity. It refuses to be formulaic, it challenges the audience, it makes you weep in a way that feels like real loss, and the ending is uncertain in a way that feels like real certainty. All with a minimalist aesthetic.
ニュアンスに満ちた象徴を通して表現される筋、緊密な語り口、そして生っぽい感情。この思慮深い劇に興味を持ったなら、週末、ディート劇場に立ち寄ってみよう。私は見る人がハッピーになるとは約束しない。私は見る人が心の中の大切なところで少しだけ成長する、ってことだけ約束しよう。
If you’re interested in a thinker’s play, in a story with nuanced symbolism, tight storytelling and raw emotion, do yourself a favor and drop by Dito this weekend. I cannot promise that you will leave happy. I do promise that you will have grown a little, where it counts.
“My Friend Has Come” has its closing performance today, 8 p.m., at Dito: Bahay ng Sining on J. Molina Street in Concepcion Uno, Marikina City. Call Allec at 0905-2672778 for tickets and other details.
――意訳の連続。申し訳ないです。もっとまともな翻訳ができる人はいると思う。誤訳したところもあるんじゃないかな。なかなか新聞の劇評の英語っていうのは大学入試の英語のレベルじゃなくって難しい。電子辞書には載ってない用法がある。だれか正確に教えてくれないかな。
しかし、しかし。だけどこんなことをフィリピンの新聞記者に書いてもらって、私はとってもハッピーだ。もうそれは間違いなくハッピーだ。国境を超えてこの登場人物たちが人とむすびついたのだと思えると、感慨深い。人の孤独を想像する力は、国境を超えて共有できるのだ。客に全て説明しきる演劇ではなく、客が自分で考え感じ、自分の脳内でこそ完成する劇を、とめざした私の初志は受けとめてもらえた、という感じがいっぱいにする。気持ちを動かす人があそこに生きている。こっちにも生きている。権力の横暴は人と人を国家というくくりに閉じ込め分断して殺し合わせようと日々策動しているけれど、我々はそんなことに負けはしない。こっちの国家権力にも負けず、あっちでも国家権力に負けず、小さく小さく粘り強く人は心を感じあう。感じあうのだ。それが国家権力に服従させられているマスメディアじゃなく、あえてミニメディアたる演劇を選んでいる私たちの志だ。
このフィリピン デイリー インクワイヤラーという新聞は、なんとフィリピンでは一番の全国紙。A leading newspaper in the Philippines. Available both in print and online. Updated daily and circulated nationwide.ということらしいから大変なものなのだ。
http://lifestyle.inquirer.net/179583/my-friend-has-come-is-awkward-moving-beautiful
ここから記事だ。日本語、英語の順番に載せようと思う。
……………………………………………
「ともだちが来た」はぎこちなくて、感動的で、美しい。
――「ともだちが来た」は見る人がうけとりたいようにうけとればよい、とする劇だ。すてきな知的なる劇だ。禅なのだ。
‘My Friend Has Come’ is awkward, moving, beautiful
THE PLAY IS NOT PUSHY ABOUT WHAT YOU TAKE AWAY FROM IT. IT'S COOL. IT'S ZEN
鈴江俊郎は見るものに挑むものを書く。数年前に上演された「髪をかきあげる」では、観客に考えさせた。孤独とはどんなことか、他の誰からも隔絶されてしまうということはどんなことか、日常の風習や社会のなに気ない習慣がどれだけ人が結びつきあおうとする試みを妨げ、あるいは助けるか、というようなことを。
「ともだちが来た」は木曜に上演が始まり、今日の夜8時にバヘイン・シニングにあるディート劇場で最終日を迎える。この劇でもそのテーマは共通だ。しかしこの劇ではさらに前作より緊密な焦点をもち、さらに複雑な様相を加えている。
“My Friend Has Come,” which opened only Thursday and has its closing performance today, 8 p.m., at Dito: Bahay ng Sining, is similar in theme, but has a tighter focus and an additional layer of complexity.
演出家リッキー・アバド氏は劇中の象徴的なものをより鋭く扱おうとしている。茶の入ったコップや柿の木は、一見したところそれは必ずしも明確ではないけれど、劇の中ではいくつもの意味を持って浮かび上がってくる。私は、最小限の装飾に徹する舞台美術が特に気に入った。それはなにか日本でのこの劇の上演のオリジナルな表現にとても忠実で、その核心をとらえているものではないだろうか。
Director Ricky Abad shows a keen eye for symbolism in this play, as little things like a bottle of tea and a Persimmon tree acquire multiple meanings, not all apparent at first glance. I was particularly pleased with the minimalist aesthetic, something very true to the Japanese origins of the play.
緊密で、含みが豊かで、
――奪うものはまず勝つ。
Tight, nuanced
Spoilers ahead.
この劇の本当の強さは、作品の軸に据えられた、緊密に構成された人間関係にある。劇の始まりでは、主人公が床の上で身もだえしている。ほとんど正気ではない様子でとりとめもなくホコリやありについてなにかうわごとを言っている。彼のともだちが自転車でやってきた時、観客はどうやら二人は再会を喜び合うべき状況なのだなとやっと知る。――しかし、二人のうまくやりとりしようとする試みや、親しみのある身振りをふりしぼってうまく挨拶しようとする試みは、すべてうまくいかない。
The true strength of the play is its tight, focused central relationship. The play begins with our protagonist writhing and all but insane on the floor, raving about ants and dust. When his friend arrives on a bicycle, the play somehow manages to communicate that these two should be glad to see each other—yet their attempts to communicate and establish friendly gestures and rituals all backfire.
その後に続くのは、私が過去にほかの舞台では見たことがないほど感情的な肉体的なパフォーマンスだ。この劇では物語を伝えるために迷うことなく肉体を駆使し、性的なコメディを客にぶつけていく。そして一人の若い男がともだちの自殺のことで苦しんでいる、という表面に現れた筋だけではなく、それを超えてもっと内面の深くにある悲しみを伝えてくる。
What follows is one of the most intensely physical performances I have ever seen on the stage. The play is unafraid to use and then subvert sexual comedy, to tell stories through body language, and to imply deeper levels of tragedy and connection beyond the surface meaning of a young man tormented by a friend’s suicide.
台詞や仕草で同時にいくつもの意味を伝えるために、劇はニュアンスの微妙さに重点を置くことになる。しかし「ともだちが来た」ではひとつの場所、二人の登場人物でそれをなんとか表現するのだ。同性愛的な感情が二人の底層にあるのだろうか?ともだちの自殺は心の病によるものなのだろうか?
It takes a nuanced play to be open to multiple interpretations, but “My Friend Has Come” manages it with one setting and two characters. Was there an undercurrent of homosexual attraction between the protagonists? Was the friend’s suicide driven by mental illness?
この劇の特長は、観客がそれを決めるところにある。「ともだちが来た」は見る人がうけとりたいようにうけとればよい、とする劇だ。すてきな知的なる劇だ。禅なのだ。
The beauty is that the audience gets to decide. “My Friend Has Come” is not pushy about what you take away from it. It’s cool. It’s Zen.
そしてこの劇はショックを与えることもいとわない。剣道の試合はびっくりするほど暴力的で、悪意を募らせるというよりは悪意を吐き出すようなところがある。回想シーンのセックスは客を不愉快に身もだえさせてしまう。しかしいちばんひどいショックは、二人の友情に暗い影をなげかける予想外な場面にやってくる。
――奪う者は死ぬ。
And yet it’s not afraid to shock. The Kendo matches are shockingly violent yet somehow vent malice rather than building it. The flashback sex scene will have the audience squirming uncomfortably, but the real shock comes at an unexpected moment, casting a shadow on the characters’ friendship.
End of spoilers.
敬意に満ちた描写
「ともだちが来た」はすぐれた作品だけがなしうることをなしとげている。この作品は客観的に傷つけられた登場人物に客を共感させてしまう。実生活ではこんな人とは一緒に住むのはできれば避けたいと誰もが思うような人物をとりあげて、しかもその人物のために泣かせてしまう。そんなすごい仕事がなしとげられたのだ。
Respectful portrayal
“My Friend Has Come” accomplishes something only the best stories do: it manages to make you sympathize with characters who are objectively flawed. It is a great feat to take a person you would not happily share a room with in real life and make you weep for him all the same.
最後の場面で、登場人物はなんとか成長することになる。けれど、それは安らぎを得たり、傷をいやすような陽光や虹を手に入れるようなことではない。これは回復の始まりであって、終わりではない。そして私には、これこそが敬意を払って哀しみをうけとめる人の哀しみの描き方ではないのか、と思える。神が出現したりハッピーな歌を歌うことによってなにかを失った悲しみをむりやり押しつぶすようなことで人は回復したりしない。そんなのは人々のリアルな姿ではない。それをこの劇は心得ているのだ。
Even at the end, the characters manage to grow without necessarily finding peace or replacing their very real flaws with sunshine and rainbows. This is the beginning of a recovery, not the end, and this to me is a very respectful portrayal of grief. You don’t recover from crushing loss with an epiphany and a happy song. That’s not how real people work. The play gets this.
スカイ・アブンドと、ミギュエル・アルメンドラスという二人の若い俳優は明らかにその若さには重すぎる課題をよくこなした。恐れ知らずの挑戦と、献身的な姿勢はすばらしい。劇中、終始続い
たほんものの日本楽器の生演奏もまたこの劇を引き立てた大手柄だったとたたえたい。
Young actors Sky Abundo and Miguel Almendras play their obviously taxing roles with fearlessness and dedication. Special credit should also be given to the live, authentic Japanese string music played throughout the play.
この「ともだちが来た」がこの10倍大きな予算や規模で行われなかったことを私は喜びたい。この小規模な上演だからこそ、ありきたりの表現を避けられたのだ。この小ささだからこそ、ともだちを失ったことを本当にあったことのように感じて客は泣けた。ラストシーンの曖昧さは、現実のように曖昧だった。それらはすべて最小限の装飾に徹した舞台美術だったからこそだ。
I was happier with “My Friend Has Come” than I was with other productions with 10 times the budget and publicity. It refuses to be formulaic, it challenges the audience, it makes you weep in a way that feels like real loss, and the ending is uncertain in a way that feels like real certainty. All with a minimalist aesthetic.
ニュアンスに満ちた象徴を通して表現される筋、緊密な語り口、そして生っぽい感情。この思慮深い劇に興味を持ったなら、週末、ディート劇場に立ち寄ってみよう。私は見る人がハッピーになるとは約束しない。私は見る人が心の中の大切なところで少しだけ成長する、ってことだけ約束しよう。
If you’re interested in a thinker’s play, in a story with nuanced symbolism, tight storytelling and raw emotion, do yourself a favor and drop by Dito this weekend. I cannot promise that you will leave happy. I do promise that you will have grown a little, where it counts.
“My Friend Has Come” has its closing performance today, 8 p.m., at Dito: Bahay ng Sining on J. Molina Street in Concepcion Uno, Marikina City. Call Allec at 0905-2672778 for tickets and other details.
――意訳の連続。申し訳ないです。もっとまともな翻訳ができる人はいると思う。誤訳したところもあるんじゃないかな。なかなか新聞の劇評の英語っていうのは大学入試の英語のレベルじゃなくって難しい。電子辞書には載ってない用法がある。だれか正確に教えてくれないかな。
しかし、しかし。だけどこんなことをフィリピンの新聞記者に書いてもらって、私はとってもハッピーだ。もうそれは間違いなくハッピーだ。国境を超えてこの登場人物たちが人とむすびついたのだと思えると、感慨深い。人の孤独を想像する力は、国境を超えて共有できるのだ。客に全て説明しきる演劇ではなく、客が自分で考え感じ、自分の脳内でこそ完成する劇を、とめざした私の初志は受けとめてもらえた、という感じがいっぱいにする。気持ちを動かす人があそこに生きている。こっちにも生きている。権力の横暴は人と人を国家というくくりに閉じ込め分断して殺し合わせようと日々策動しているけれど、我々はそんなことに負けはしない。こっちの国家権力にも負けず、あっちでも国家権力に負けず、小さく小さく粘り強く人は心を感じあう。感じあうのだ。それが国家権力に服従させられているマスメディアじゃなく、あえてミニメディアたる演劇を選んでいる私たちの志だ。
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