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戯曲の講読、上演許可の連絡などは office白ヒ沼 までどうぞ。
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とある演劇人の旧友への手紙。

鈴江です。

お返事ありがとう。

お返事の内容はわかりました。それがあなたたちの現時点での判断なのだろうから、尊重します。

ただ、対等な対話として、私の方の意見も、反論としてお伝えさせてくださいね。

――高校演劇は高校生のためのものだと思う。――

――これが生徒が書いたもので、生徒の思いから発したものであるなら、全面的に運動に賛同できます。――

――生徒が発案した脚本なら、そして、生徒の思いを聞いて、先生が書いたものであるなら、応援したいです。――

だけどそうでないから迷います、ってことですよね。

これについて。3点あります。



▲まず一点目。▲――生徒は役者だから、無関係だ、ってほんと?――

たしかに、生徒はこの作品では役者です。役者って脚本書いてないから言いなりでやってた無関係な人なんでしょうか?だから巻き込まれて気の毒なだけの人?「この作品には役者の思いがこめられていない」とおっしゃるわけですよね。そうでしょうか?

これについて、あなたは役者だから、逆に、問いたいのです。あなたが出演するとき、あなたは思いをこめないものですか?だから作品が排除されても平気でいられるの?「ああ。脚本家の人、気の毒う」ってにこにこパフェ食ってますか?あなたは書かれた台本をただ覚えて、演出家に操られて出演してるだけですか?つまりあなたが発案してあなたが書いたわけでもないお芝居なら、あなたは排除されても仕方ないのでしょうか?そういう「表現を受け身でやってるだけ」の存在ですか?「役者はただのコマ」ですか?だから屈辱を感じない。そうですか?

――私はそんなはずはない、と自分の体験から信じられいます。役者はコマじゃありません。役者こそ作品を自分なのだ、と考えてしまう人種です。それを主体的に演劇する人、っていうのですが。私は脚本家で演出家ですから、役者専業の人としょっちゅう仕事しますが、1時間や2時間の芝居を上演するためにはどんなレベルの人でも相当稽古します。セリフを覚える労力だけでも大変です。ましてや、今回の上演は二人芝居です。膨大なセリフの量です。たいていの芝居では、上演が終わるころには、セリフはその人のセリフになってます。多くの説明をしなくても、あなたは役者だから同意してくれると思ってます。役者はコマじゃない。役者はどんなへたっぴーでも、レベルが低い劇団の場合でも、一生懸命やるものです。やってしまうものです。でないと舞台に立つ、みたいな怖いあの時間に立ち向かえない。そして終わったあとには、覚えて気持ちをこめて動きを考えて、濃密に自分の胃袋や脳みそにしみこませたその台詞たちは、なかなか頭から離れなくなってます。お芝居は終わったから、もう忘れてもいいのに。離れない。数か月たったころ、芝居に使った音楽が、街なかでふと流れると、その台詞が勝手に口をついて出てきたりもする。何年かたっても、その頃つき合ってた彼氏の口癖が急によみがえって困る。気持ちがよみがえって胸にくる。役者は、外部の人、経験したことのない人が言うようには、「ただあやつられて」できるものじゃありません。

 ましてや、芝居を始めた若き日の芝居のセリフ、強烈じゃないですか?私は、セリフじゃないものを覚えてますよ。とっても恥ずかしい、劇団そとばこまちの「オズの魔法使い」でやった村人の踊り、バナナホールの照明の具合は、いまも時々あたまによみがえってきて私を困らせます。あなたはそういうの、覚えてませんか?

 私などは、脚本を、見も知らぬ人から上演許可を求められて、上演してもらうことすらよくあります。私が、自分の座組のために書き下ろした台本ですから、その人たちは、私にはよそものです。脚本は、あくまでも私の書いた台本であって、そのひとたちの作品じゃありません。しかし、たまにそういう人たちと数年たってどこかで会うことがあります。会話をすると、書いた私も忘れてる台本のセリフを、そういう人が覚えていて、「あのセリフが私は頭から離れない」とか言われたりしてびっくりします。そしてその人独自の思い入れを教えてくれたりします。もはや、私の書いた台本はその人の胸の中で、その人のものになっていることを否定できません。

 だから、この高校生たちの立場に立ってみる、っていう想像をしてみてください。16歳のあなた。何か月も部室で稽古して、自分が思い入れを持つようになってしまった劇を、否定され、排除されたとき、あなたはかなしくないですか?それがあなたの作品じゃないんだ、というふうに言われて「応援しない」という大人に取り囲まれたら、どんな気持ちがしますか?「応援しない」というあなたの言葉を、16歳のあなたに言えますか?

 私は、現場の役者たちの感情を知っているから、この冷酷な大人たちの仕打ちに黙っていられなかったのです。どんな気持ちになっただろう、高校生は。と思うと、立つほかない。そう思いました。16歳の俊郎ちゃんだったらどんな気持ちになったか。私は、鼻の奥がつんとしました。目の前で暴虐にうたれた子供がいて、その子供が大人たちに囲まれて無力な時に、傍観していていいとは、思えなかった。

 最初にこの決定を聞いた福井農林の部員たちは部室で泣いたのです。くやしい、と。

 そして、いま、その子供たちは暴虐をふるった大人たちの手の中にいます。私たち応援する側は、遠ざけられています。玉村先生は引退した教員で、コーチもやめていますから、部外者です。学校には出入りできません。一方、部の顧問教員、教頭、クラスの担任教師、皆が校長や顧問会議の決定に従いなさい、という立場を示します。よほど気持ちのしっかりした子でないと声は上げ続けられません。「声をあげると、こわいことがあるよ。」と、お化けが出るぞ、みたいな話をことあるごとにされる環境にいたら、不安で、たてません。

 しかし、社会的な弱者が自分の権利を主張することが困難な場合、権利についての知識がなかったり、主張する力がなかったり、そのことばをもたなかったりするばあい、支える援助職の人がすることは、「エンパワメント」というものなんです。権利擁護、という動きです。その人が権利を主張することをささえてあげること。時には代行すること。主張すると危険なことがあると思われるなら、その危険からみんなで守ってあげる体制を組むこと。これが、常識です。ところが、いま、こどもたちを取り囲む大人たちのやってることは、逆です。おどかし、こわがらせ、くやしかった気持ちを忘れさせようとしています。それでいい、とあなたは思いますか?

 あるいは、役者は謙虚だから、脚本は脚本家の先生が自分の頭の中で書いてくださる。それを口をあけてただ待つのが私たちさ。とか思ってるのかもしれません。しかし、脚本を書く私たちは、あなたたち役者が思うような感じで、勝手に、役者と無関係に書いてるわけじゃありません。

 いい上演にするのは役者です。役者が客の前にでるのです。最大のアピールをする演劇の武器は役者ですから、役者が生き生きするセリフってなんだろう、って経験が長い脚本家ほど考えるはずです。あの役者はどんな台詞なら面白くなるだろう、面白く言えるだろう、のりのりでやってくれるだろう…。文学座などの新劇の団体は、脚本を発注する前に役者は誰かを、決めてくれません。これはもう、書きにくくってしかたない。せめてどんな顔の、どんな背の、どんな性格に見える野郎が喋ることになってるのかわからない状態では、まるで筆に手ごたえがない。あの役者がやるなら、こういうセリフをあえて言わせてやりたい、とか、苦手そうなこういうセリフならどういうふうにもがいてくれるだろう、とか。稽古場に入る前から、すでにその役者との対話、葛藤、格闘が、勝手に脚本家の中では始まっていて。その格闘の困難さこそが、脚本の魅力の源となるのを知っているから、私などは極力、頼むのです。「だれですか。せめてひとりでも決めてくれ。」この8月に、イタリア国立劇場の座組に書き下ろしましたが、4人の女優をあえて先に決めてもらいました。地球の反対側の座組だけど、コロナでいけるわけないんだけど、私はあきらめきれなかったのです。どんな役者か知るのは重要だ。と。写真をもらって、その人たちになにを愛するか、憎むか、なにが人生の気がかりか、喜びか、どんなことに最近泣いたか、笑ったか、などとりとめのないインタビューをしてもらって、その模様を動画でもらい、それを受けて、書きました。彼女たちのために。

 彼女たちのきもちを聞いて、それを内容に盛り込んだわけではありません。彼女たちの存在の気配、それが、脚本を書くためには必要な魂なのです。あのかなしくて心細い必死の作業を、あなたは信じてくれるでしょうか。

 ……だから、つまり、誇張でも文学的な装飾で言うのでもなく、脚本は、役者が書かせてくれているのです。たとえ、役者側から見たら稽古初日に天から降ってくるようなものに見えたとしても。

 ましてや、この玉村先生の書き方は、生徒たちにあて書きしています。生徒たちに取材して得た言葉をいくつも劇中に使っています。筋や内容の骨格を玉村先生が考えて書いたものだとしても、それを「生徒のものじゃない」というあなたの判断は、とても演劇経験者がする判断だとは私には思えない。信じられない論理です。

 私も大学の先生をやってましたから、大学生、18や19の少年少女の上演のために台本を何本も書きました。筋や骨格を彼らが提供してはくれません。残念ながら、彼らにはその力がない。だから考えるのは私です。ですが、彼らの気配、彼らが言えそうな言葉、あるいは彼らが今言えなくても刺激しそうな言葉をなんとか選んでひねくりだして書くのが、常でした。インタビューして彼らの日常生活のエピソードを使うっていうのは常套手段でした。それが彼らが生き生き演じだすきっかけになるのは明確ですから。玉村先生はいつもそうやって書いているそうです。この「明日のハナコ」もそうです。

 そして、書き終わったからといって、脚本の仕事はそれで終わったわけじゃありません。意外なことに。稽古していくうちに芝居はどんどんかわっていくのはあなたも知っているでしょう。脚本家にしてみたら、やっぱりたいていは、思いもしないようなセリフになってたり、ニュアンスが違うものになっていたりするものです。どれだけ上演を計算して書いていても、役者がしょっちゅう共同作業している熟知してるつもりの仲間でも、です。セリフの言葉自体が同じでも、演じる人が違ったら。あるいは、その役を演じる人が同じでも、座組が違っているとそれは微妙に違ってくるもので、微妙な違いの積み重ねで結果として全体としてはずいぶんちがう上演になるもので。それは「役者が勝手にどんどん脚本からそれていく」ってことじゃありません。役者は台本に書かれたセリフと一生懸命向き合いますから、刺激されて、考えるのでしょう。意識して考える、ということのほかに、無意識に自分の過去の経験や感情と結び付けて発酵させる、ってこともあります。そしてそちらの方がむしろ重要です。それを意識下の仕事にまかせないで、できるだけ意識の上にのせて自分でいろいろコントロールしようぜ、っていうのが、世界のオーソドックスな俳優術の標準スキル「スタニスラフスキーシステム」の根幹です。つまり、脚本が役者の存在内の感覚と相互作用しあって、上演となって化学変化をおこして立ち現れるのです。つまり、脚本は上演の重要な要素ではありますが、全てではない。すべてでないどころか、やはり演劇を作るのは、大半は役者なのです。よくもわるくも。そしてそれが演劇の魅力の源なのです。人が演じるのがいいのであって、きっと平田オリザ氏がチャレンジしてるアンドロイド演劇ができたとしても、それが同じように魅力あるパフォーマンスになるなどとは、私には思えません。それはきっと多くの演劇人が同意しないはずです。あなたも役者ならそうでしょ?

 つまり、上演の主体が、役者じゃないかのような論理、「生徒が発案して生徒の思いを、先生が書いたものであるなら、応援したい」というのはずいぶん役者を愚弄する考え方じゃないですか?

 じゃ、あなたが発案してなくて、あなたの思いを脚本家に伝えてから脚本家の先生が書いたものじゃなかったら、それはあなたの作品じゃない、ってことでしょうか?だからあなたはその作品が排除されても怒らない?かなしい気持になっても、あなたのためには誰も「応援しない」のが当然?





そして二点目。▲――高校生はただの受け身な「こども」なの?――

高校生は、なんにも考えないで、演技して、舞台に立ってしまうような、そんな「こどもっぷり」なんでしょうか?だから作品は彼らのものじゃないんでしょうか?だから排除されても彼らを排除してはいないんだからOK?

あなたはこんなことを言います。

――高校演劇は高校生のためのものだと思います。これが生徒が書いたものだったら、生徒の思いから発したものだったら、全面的に運動に賛同できます。――

 そのとおり、高校演劇は高校生のものなんですよ。「玉村先生は自分のためのものを書いただけなんでしょ?高校生はなあんにも知らないでただやらされたのよ。高校生のためのものじゃないわよこんな作品」ってなことをあなたは言ってるんでしょうけれど、高校生ってそんなふうになーんにも考えない知らない気づかないで舞台に立っちゃう生き物なんでしょうか?弁識能力と制御能力がない存在?

 あなたが高校生の時、あなたはなにか表現するとき、すべて大人たちに言われるままだったですか?いんや、自分がしたいことをして、いやなことはしなかった。そうじゃないですか?

 大人の先生が書いてくれた台本を上演するとき、その大人の先生の労力と、自分たちにあて書きしてくれた愛情を感じて、それにこたえなきゃ、という「責任感」があって、日々の稽古をしんどいけどやろうとしてたはずだ、と想像しませんか?お互いの演技にだめだししあって、傷つけられたり傷つけたりして、いやになってやめたくなったりして、だけどまた稽古場には行ったりして。16才だもの。とてももめるでしょう。家に帰ってひとりになったら涙が出たりもしたのじゃないかな。私はそう想像します。

 いやそんなことはない、書いてくれた人の気持ちなど考えず、その人が書いた台本の内容などまるで無関心で、興味も持たないまま、ただ台詞もらってうれしいから、内容も理解しようとせずに、セリフ覚えてだらだらやったのだ、とあなたは想像しますか?

 もしそうなら、この「高校演劇」は、「高校生のもの」じゃないのでしょう。「大人のもの」です。だから大人が勝手に騒いでるのでしょうね。

 そして、この作品は、「偏った反原発野郎の大人が、自分の反原発の主張をするためだけに、演劇部の上演の場を乗っ取って書いた、一方的な偏った作品」だという決めつけが背景にある言い方ではないのかな。演劇作品は先ほども書いたように脚本家と役者の格闘のプロセスそのものであり、結果です。脚本は、内容がどうであれ、まずはいちばん初めの読者である役者たちのために、書くものです。演劇の現場をたくさん踏んだことがある脚本家なら皆、そうしてます。最初の読者によまれるあの時間は、何作書いても、怖いものです。コピーした台本を役者たちに配るとき、役者たちが一枚一枚手にとって眺め始める時。私はちょくちょく読み始めた役者たちの沈黙にたえかねて、「読まないで!いや読んで。ダメ!こら!読むな!ああ。助けて。おねがい」って言ってるらしいです。いやそんな変なこと、言うはずないのです。言ってません。だけど役者たちは芝居が終わって数年したらあることないこと言い合ってます。鈴江さんの稽古初日はひどいよな。――そんなわけない。私はいつでも静かに処刑を待つ囚人の気分で座ってるんだ。座ってるんだってば。

 そして、役者がそもそも理解できない、彼らに縁もゆかりもない内容、興味も関心も持てない内容なら、もはや上演はまったく魅力的にはなりえません。どうしてこれがわかんないんだ!と書き始めて7-8作目ころまでは私は最初の読者が最大の敵だと感じてました。だけど数々の失敗上演をつくって、さすがに悟りました。演じる人たちの胸に届かない脚本なんて、味のしない砂みたいなもんだ。と。あの役者たちを感動させるのが、上演の場で「すげえ」と客を圧倒するための最大の近道なのです。初めての読者を相手に、初めての読者を感動させるために、彼らがなにを感じるのか、どう感じるのか、考え始めました。野球で、自分の好きな配球をする若手のキャッチャーが、ピッチャーの持ち味を引き出すベテランに成長するのと似てます。そして、「脚本はいいんだけど、上演はだめだった」てなことはないんだ、と確信するようになります。上演がだめになる脚本っていうのは、どうあれ、つまらない脚本なんだ、と確信します。

 それは、役者の初読で役者が感動しなきゃだめだ、ということじゃないんです。それはあとからじっくりでもいい。稽古のプロセスで、役者が葛藤し、悩み、苦しみ、そのあげくに、なにか、人として変化するような瞬間に、芝居はもっとも輝きます。迫力が出てくる、と言ってもいい。人としての変化です。役者としての変化、じゃありません。これもスタニスラフスキーの標準の教科書なんかに書いてあることですが、役者が自分の普段気づかない内面の奥にあるなにかに覚めたとき、芝居はひどく深くなる。と。真実を語る。とも書いてあったりします。それは、私は何回も目撃しました。だからたいてい、初心者が本格的に演劇に取り組んだ時にとことんつき合うって座組が、確率が高かったりするのです。私の場合、そうです。慣れない舞台に立つ恐怖。セリフを本番で忘れるんじゃないか、っていう予期不安。自分ごときがステージに立つなんて近い知人が受け入れないのじゃないか、という低い自己評価。そもそもそういう不安の塊が稽古場にきて、自分の不安にまともに直面させられるのです。毎日、毎回。演出家の前に立つことがもうすでに恐怖でたまらない。だけどどうにかしないと本番は来る。だからいやだけど、苦しいけどなんとかしたい。ああ緊張すると覚えたはずのセリフが出てこない。なんて低いレベルで私ったら止まってるの……その人が、本番前になったら、いよいよちょっとだけ開き直ることを覚えます。それは理屈や気分の切り替えではなく、限りなく身体感覚の学び、みたいなものです。自転車に乗るコツ、に近い。あれを言葉で説明しつくせる人はいないでしょう。乗って乗ってこけてこけて、をくりかえさないと乗れるようにはならない。見てあげてないとやれるもんじゃない。だけど見てる人がどうにかできるものではない。

 そういうものです。ことばで理知的に理解できる範囲の外にある、なんだかとても「獣」的な領域の、精神の変化です。ことばで語れるものなら、なにも無理して演劇なんかしなくていいのです。演劇でしか到達できないなにかそういうものがあるから、演劇をするのです。で、それは、そのプロセスは、大きくセリフがどんなものか、に左右されるものなんです。そんな背中の奥の体幹の筋を刺激するためのことばが、ひとりひとりちがうのです。それは役者を見た瞬間に察知できる透視能力があるわけでもなし、脚本家はもがくのです。どういうのがいいんだろう。と。それは書いて渡してみないとわからない化学変化の予測実験、みたいなものです。

 演劇の上演を経験したことのない、文章書くのだけが好きな書斎のおじさんが書いた処女戯曲ならまだしも、玉村先生は長短合わせると50本ほどは脚本を書いた人です。そしてそれはたいてい本番が来るからやむを得ず書いたものだそうです。つまりほぼすべて上演まで持っていった脚本です。高校演劇の脚本を書く教員というのは、へたなプロよりよほど経験を積んでしまうものです。新人勧誘のための春の短い上演。夏前の、一年生が初参加する二日間の合同練習会のための練習用台本。夏の県大会上演。秋の文化祭の上演。冬の合同ワークショップのための短い稽古用台本。春休みの地域の数校だけ集まる例年の小さい演劇祭のための台本。……書ける教員だ、と思われてしまうと、断らなければ年間5-6本も書くことになることもあるのでしょう。こんな本数、私ですら書いてません。せっかく書くのに、生徒をなにか目覚めさせる可能性なんかない脚本をだれが好き好んで毎年書こうとするでしょう。

 その彼が、福井県という場所に生まれ育ちながら、世界でも特別なこの状況を自覚もせず生きている不思議に生徒らが気付いた時、生徒らが自分の中に生まれた「不思議」の感覚とどう向き合うのか、試したくて、この素材を選んだのだろう、ってことは、私は容易に想像できます。あるときには自分たちの祖父母が実は若い頃があった、という不思議だったり、とんでもない大量虐殺を彼らが経験していた、という驚きだったり、あたりまえの16歳の生活のすぐ横に、面白い刺激がたくさんころがっていますから、歴史や生活は、そのまま豊かな演劇の素材の海です。なにを選ぶか、なにを持ってくるか、それをどういう書き方をすれば16歳の役者の胸になにかひっかかるものになるのか――毎回の彼の作品のもがきは私にも切実なものとして届いていました。そして、そのもがきは、高校演劇の顧問、指導者、コーチたちが毎回どこの県でもやっているもがきです。生徒たちの知ってることだけ書くのじゃつまらない。それは生徒たちの刺激としては平凡なものになっちゃうかもしれない。時々、背伸びして未知の世界に手を伸ばそう。そういう機会を作るお手伝いをするのだ。誠実な顧問であればあるほど様々な社会的な問題、課題、歴史の暗い面などに目を向けるのはそのためです。

 そういう相互作用こそを、そのプロセスこそを「演劇の稽古」というのじゃないですか?こんな釈迦に説法みたいなこと書いてしまって申し訳ない。だからこの脚本のことは、典型的な「高校生のための」作品というのじゃないんでしょうか?福井なんだから原発がある。だから書く。福井なんだから化石が出る。だから書く。福井だから大地震があった。だから書く。福井には空襲があった。だから書く。福井には必要なんだかよくわからないとみんながいう新幹線の工事がある。だから書く。福井には最近水害もあった。だから書く。紫式部がちょっといたとか、江戸幕府が倒れる時に走り回った人がいたとか、百姓一揆があったとか、役者が刺激されて、考えるきっかけになることは全て素材です。演劇がすばらしいものになるためには、いつも同じ素材をいつも同じ書き方してちゃ足りないのです。いつも世界新、いつも今までなかった書き方を目指してチャレンジするのです。今まで自分が作った作風なるものも壊して、そう。創造的破壊です。そんなのは創作プロセスの必須ポイントです。

 その素材を制限すること、たとえば原発は書いちゃダメ、とか、教室のいじめの事件は書いちゃダメ、とか、そんなことがひとつひとつ、演劇の表現を貧しくします。演劇の表現なんてまずしくなったっていいじゃないの、食べられるわけでもなし。生活にあくせくする大人たちはそういうかもしれませんが、私たち表現者は知ってます。食べるためだけに生きてるんじゃないってことを。生きてることはなんなのか、意味を探るようなことこそ、生きることなんだ、と。世界中の富をたっくさんもってるお金持ちがいたとして、でもその人がなーーんにも感動を知らない、海や山の美を感じない輩だとして、それでもその人が世界で一番貴いんだろうか?人間の文化、文明って、食べるのに困らなくなること、便利になることが究極の目標なの?愛や、やさしさ、深い考え、美、どれだけ豊かな人間関係があるか、ってことが文化じゃないのでしょうか。ぜに、金、みんながおんなじことを考える、ってことだけじゃほんとにつまんない。

 演劇ってジャンルは、本気でそういうことを、ものを、考えて目指したりする、ゼニ金に追われてるばっかりの種類の人たちには意味不明な領域なのかもしれません。近年そういう大人たちの勢いが強くなってると私は感じてます。そういうことに警鐘を鳴らすのも立派に演劇の役割です。でもそういう主張自体が、脚本家のめざすものじゃありません。そういう主張をするこのおじさんが不思議だろ?っていうのもひっくるめて、役者に対するなんだか、アプローチなんです。そうでしょ?こんなぱっともしないおじさんのどこからこんな詩的な愛のささやきがでてくるの?みたいな脚本家、あなたは会ったことありませんか?稽古場はマジックにかかったみたいに不思議の力で皆が考えはじめるでしょ。脚本家の力量って、稽古場に不思議の魔法をかける力なんです。それを目指して脚本家は日々チャレンジするのです。

 そして、この福井農林の高校生たちは、この三項目の大人たちが下した決定を聞いた直後に、こう反応したのです。署名用紙にも紹介した通りです。

”原発の問題や社会の問題について、自分たちでも調べました。「こういうことは今まで考えたこともなかった」という部員もいました。それでいろいろ考えるようになった。”

そういう現場での日々があったから、直後は、以下のような反応だったのです。

”生徒たちは、自分たちの劇がテレビ放映にふさわしくないと思われたことに傷ついています。生徒たちは、信じてもらえなかったということに傷ついています。”

”上演した生徒たちは、「言われなき批判がくるかもしれない」と聞かされて、不安な面持ちになりました。けれども、そのあと、それでも放映してほしいと言いました。悔しい、と泣いていました。自分たちが稽古してきた劇が放送してもらえないのは悔しいと。”

 あなたも、社会的な問題を扱った作品に出演したことがあるではないですか。その時に、まったく受け身で、なにも知識を持たないまま、調べようともしないまま、舞台に立ちますか?あなたは立派な職業役者だからするけれど、アマチュア役者、高校生役者などはおろかだからそんなことはしないのだ、まったく操られるままに動くのだ――と、想像しますか?それはまたひどい高校生たちへの侮蔑です。

 この作品が、原発の素材を扱ったことは、きちんと役者の高校生たちに届いていたのだと私は確信します。それがどの程度の知識の量になったのか、理解の深さになったのか、はもちろん大切なことですが、もっと大切なのは、彼らが「なにかいわくいいがたい自分の中の不思議にむきあった」かどうかじゃないのかな。こういういい方で、役者のあなたにはわかってもらえると思ってます。

 そして、私には、高校生の役者たちはなーーんにも考えないでこの社会の問題に斬りこんだ作品をやらされただけなんだ、とは、思えません。そういうものの見方には立ちません。なぜか。私もそういう作品を、大学生たちに、書いて上演した体験があるからです。今どきの大学生は、やっぱり読書量も少ないし、社会への興味関心も薄い。それは否定しません。しかし、役者として舞台に立つ、ってことになり、それを目の前のこのおじさんが書いたんだ、ってことがわかったら、さすがにどんなに鈍感なにいちゃんでも、考え、調べ始めたりするものです。子供はそんなに愚かじゃない、と私は知ってます。

 いや、正直言うと、私は高校生に対して書き下ろした体験はないので、この事件があるまではそれについて、強い確信はありませんでした。だから、最初にこのことを耳にしたその瞬間、「書いた玉村先生に対する人権侵害だ」とは思いましたが、「高校生は自分のこととして受け止めてないかもしれない」という思いは頭をよぎりました。大学生ではなく、高校生はもっと幼いだろうから、と。しかし、「くやしい」と泣いた、という報告を聞いて、すぐにその疑念は消えました。ああ。同じだ。と。私の知ってる18歳の、大学一年生の、頬の赤い、あのにいちゃんやねえちゃんたちと同じだ、と。私の疑念を恥じました。

 考えてみれば、高校生だったころの私だってそうだった。大人に対する反発や自分に対する劣等感でいっぱいいっぱいだったその分、子ども扱いされることを最大に憎んでいた。自分の主張は子供の主張じゃない、俺は自分で考えて動いたんだ、と言い張る気分でいっぱいでした。くやしい、という彼らのニュアンスがすごく想像できます。それは、時代を超えて、青年期の心理状態の普遍的なもので、公認心理師である私が学んだ発達心理学の知見はそれを雄弁に教えてくれます。

 人が泣くのは、相当なことです。人が16歳や17歳にもなったら、そんな簡単に人の前では泣きません。泣かないようにしてるものです。この高校生の涙と、「くやしい」という言葉を、軽く見ないでほしいのです。





三点目。▲――こどもの権利のことじゃなかったら「応援しない」のは正しいの?――

 じゃ、百歩も二百歩もゆずって、この演劇が高校生の思いがこもってないものだと仮定しましょう。高校生の気持ちとは無縁に、演劇部のコーチのおじさんが書いた脚本だと仮定しましょう。それでもこの運動が大切なことだと私は言えます。

 大人の表現への抑圧だけなんだったら、この排除への反対運動を「応援しなくていい」のか?

 高校演劇部のために書き下ろしされた大人の台本が、排除されたのです。これは、「高校演劇への」介入じゃないですか?「表現への」介入じゃないんですか?これは、大人であれ、子どもであれ持っている、「人としての」、「表現者の」、表現の自由をうばう権力の行為じゃないですか?子供に対する人権侵害だったら応援するけど、大人に対する人権侵害だったら応援しなくていいんでしょうか?演劇への侵害なのに?それはどうして?

 これを許せば、すくなくとも福井県では、原発の劇は排除されることが定着するだろうと予想します。きっと高校生が書いても、排除されるでしょう。今回のことも、大人が書いたから、排除されたのじゃないのです。高校生だろうが大人だろうが、誰が書こうが、内容が部会長たちには気にくわないから排除されたのです。部会長は、校長先生で、演劇部会の長です。偉い人です。偉い人がたまたまそう思ったら排除できる世の中になるのです、福井県は。それがこわいから、私は運動してるのです。それは福井県だけではおそらくおさまらないからです。原発のある県、愛媛県でもきっとそうなる。鹿児島県、宮崎県あたりも。北海道、静岡……そして、次々、他の府県にも広がる。

 排除が決定された時点で、彼らや後輩には「やばい台本はやばいことになるんだよ。」って口コミが伝わるでしょう。「それやばい系の台本じゃね?」「やっばいよやばいよ。削除削除。」気弱な笑い。そんな怯えたやりとりがあちこちの部室で起こって、決して「やばい」台本はもう演劇祭のステージにはでてこなくなる。自主的に。…これは、高い確率で起こる来年以降の事態だと私は思っています。

 このまま放置すれば、です。

 だから、放置はしないことにしたいのです、私は。

 こんな排除がたくまれたら、間違いなく大人たちは立ち上がる。「子どもが書いたとか大人が書いたとか関係ないんだ。表現の自由は、みんなが守るんだ。みんなの権利なんだから。」と。そして、権力者もこりる。「こんな反発されて、こんなにいろいろ怒られていやな目にあうんだから、かんたんに思いつきを押し付けちゃいかんのだな」と学習する。たちあがった大人たちの背中を見て、子どもたちは「そうなんだな。自分たちの表現の自由ってこういうふうに、みんなで力を合わせて守るんだな。守れるんだな。」と学習する。そして自信を持つ。「私には表現する権利がある」。

 自分が尊重される、と感じられる社会。それはきっと幸せな社会です。

 私は、遠い福井の、遠い高校演劇の問題を、遠いところにいるあなたに、どうかお助け下さい、とお願いしてるつもりはありません。控えめにお願いの形はとるけれど。本心は、違います。

「おい、これ、おまえの問題じゃないの?」と問いかけているつもりです。あなたの権利が、やばいんじゃないの?と。

あなたは、そう感じないのでしょうか。役者として。自分の演劇が、やばいことになってる、と思わないですか?私は、思ってます。私は演劇だけしか興味がない人ではないので、表現全般について、やばいことになってる、と思ってます。

 この運動を「応援しない」理由はいくつでもおもいつくでしょう。その気になれば、あらさがしはしようと思えばできる。ナチスの人権侵害を抗議しない理由をいくつもつくってた人が、あとから悔やむ言葉を残してます。

【ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。】

ドイツのルター派牧師、マルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩です。

長いメールになりました。ごめんなさい。

そうです。あなたのおっしゃるとおり、どうか、ほんとに、演劇人として、じっくりと、考えてください。

加えて言うと、この書いた玉村徹さんという方の筆力を私は高く評価しています。高校教員だから…プロじゃないから……なにも名誉ある肩書を持っていないから…と判断するのは早計です。有名ではないからと言って、実力がないとは限りません。力がかなりある書き手がプロにならないで世間には埋もれている、という例を私は多数知っています。宮沢賢治だって死ぬまで詩が売れなかったのです。ゴッホも。「円熟は平易にむかう」と勝手に私は信じますが、彼の筆致は高校生や子どもたちにもわかりやすく親しみやすく、かつ人生や社会のことを悲しくきりとる視線のこわさが相当なものです。私はかねてから尊敬しておりました。

すぐれた作家だから、この人のために立ち上がったのだ、と思われるとむしろくやしい。だからそういう表明はしておりませんでした。

けれど、すぐれた作品がこんなあほくさい扱いをされることに私は我慢ができなかったのはほんとです。それは動機のちいさくない割合を占めています。

それを率直に告白します。

かぎりない友情のきもちをこめて、あなたにとてもこまったとんでもない長文のメールを送ります。

ごめんなさい。最後まで読んでくれてありがとう。

……………………………………………………

手紙の内容は以上でおわりです。

そして、ここで文中の内容つなげて、つながることがむつかしい部の生徒たちに伝えたいと思います。

……あなたたちは自分の権利を主張していいんですよ。だけどあなたたちが自分の権利を主張することが困難な場合、権利についての知識がなかったり、主張する力がなかったり、そのことばをもたなかったりする場合、私たち大人には、「エンパワメント」ということができます。権利擁護、という動きです。あなたたちが権利を主張することをささえてあげること。時には代行すること。主張すると危険なことがあると思われるなら、その危険からみんなで守ってあげる体制を組むこと。これが、現代社会では、常識です。だから、安心してください。私たちはできるかぎりのことを、あなたたちのためにします。そのつもりがありますから、不安があるようなら、連絡をください。待ってます。

あなたたちの気持ちをあるがままに耳傾けることをだれか大人がしてくれてるでしょうか。私たちはあるがままの気持ちを聞きますよ。時間をとって、ゆっくりききます。あなたたちは、ひとりじゃありませんよ。大丈夫。

……………………………………………………

鈴江俊郎
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旗揚げ公演をされる団体。
旗揚げ公演、っていうのはそりゃもう気合がはいってるもので。
私も思い出すいくつかのそういう不安と興奮。がんばってくれる、と信じる。








 写真は学習会で語る小出裕章さんと息をのんで聴くみなさん。プロジェクターの画面をはっきり見ようとすると、会場の電灯はくらいのです。くらいなか、熱を発する人の群れ。夜の熔岩のようでした。
 芝居は欲が出てきておりまして。自分の力みすぎが、いやだからといって力を抜きすぎても、とは言え、遅いテンポじゃ相手も間のびする……とかいってるうちに一瞬いまどの行やってるのか見失いそうになっては、…あ。大丈夫大丈夫。本番っていうのは千々に心が乱れて、それはそれでやっぱり楽しいのです。相手役の玉村先生は普段はまったく役者などしない人なので、だからこそ本番ごとにめきめきうでをあげるのが共演してて面白いのです。
 学習会、小出裕章さんは、会う前は理系の不屈の研究者なんだから…と気むつかしい怖い人、を勝手に想像していたのですが、これがまた大外れ。気負わない丁寧な方で、とてもわかりやすい「原発はこの世界に必要なのか」を問う学習会でした。
 私は、子々孫々に膨大な猛毒をおしつける現代人のこの「原発」という愚行を怒る彼の言葉に、初めて出会うともだちのような感覚をもってしまって、涙が出そうでした。失礼。
 会場に来た参加者のみなさんも熱く、あたたかく、小出さんの誘いにそって、私たち二人のこの上演活動に感謝の拍手、っていうのをもらってしまって。こちらはほんとに涙が出ました。
現場では孤立を感じ、運動はやっぱり歯を食いしばるようなきもちになる局面がいくつもあったことを一気に思い出して、情けなくも泣けました。
 先週もしあわせな夜でしたが、今週も、まけないくらい幸せを感じる夜でした。まことに、まことに。

 がんばって、私たちのような孤立を感じる人たちに役に立ちたい、ときもちをあらたにしております。さあ、これからなにをしようか、と考えています。

 いやもちろん、目の前にあるのは年明けの愛媛での公演です。討論・学習会です。こちらは、さらに小さな会場で、めいっぱい迫力いっぱいの芝居を見せつけたい!こちらは私たち上品芸術演劇団の本拠地といっていい■Ishizuchi倉庫なので、舞台美術も照明も、ちょっと小粋にしあげますよ。お楽しみに!







中筋純さんという写真家・映像作家の方が、「勝手に応援企画」という元気なプランを実行してくださいます。
福井のフェニックス・プラザに来られたら、私たちの上演・学習会の前でも後ろでもいいので、ぜひお立ち寄りください。
3階のギャラリーでは写真展示、映像ホールでは映像作品が上映されます!
中筋純さんは長年にわたってチェルノブイリと福島のうつりゆく光景を記録されている方です。
チラシは見事にコラボ企画、になってます!私たちの企画と合わせて鑑賞されると、立体的にこの原発を巡る問題がみなさんのイメージに立ち上がることになるでしょう。

19日は、危険を訴え続けた生涯を送られた不屈の研究者が、原発は果たしてこの世に必要なのか?を語りに来てくれます。小出裕章さん。こんなことでもなかったら、私は実際にお会いすることもできなかっただろうと思うと、緊張しています。お芝居、力みすぎないように気をつけて。リラックス、リラックス。



おつかれさまのメールをくれた人に、返事を書いた。
……
ありがとう!
意味を感じてくれて、とってもうれしい!
僕はもう、はじめっから、この上演を、たのしみに、やってました。なはは。ことがどう動こうが、車座演劇祭、やることは間違いなくできるんだから。と。
役者で舞台に立ってのはやっぱり楽しーーいね。
脚本、演出をたくさんやったあげくに、たどりついた感覚です。舞台で演じてる最中に上の空、次こうやってみようか、いや相手役がびっくりするだけか、アドリブはほどほどにしないとな、だけどちょっとやるか。あ。せりふとばしかけた。ごめん。うけたなあ…ああはずした、くそ。間が悪いんだよタマムラ!火の出るようなダメ出しくらわしたんぞこら、、、、
とか思ったり。
でも上演は終わったらすっかりなにをどこで考えたか忘れちゃうんですが。だからダメ出しはやさしかったよ。甘くて、こってりと砂糖の上にあんこのせたようなね。そんなのでした。ほんとですってば。
そもそもあんまり余裕がない中で考える上の空、ってこのぎりぎりの感覚がね。ストレートを待ちながらカーブに対応、0.5秒くらいの世界、ってあのバッターボックスの感じと似てるんです。ことばじゃないよね。身体のセンスよね。というやつ。
こちらにいらっしゃい○○さん。今度一緒に舞台に立とう。あなたになら、私は容赦なくアドリブ食らわせることができそうな気がしてたのしみだふははっはは。


福井の高校演劇から表現の自由を失わせないための『明日のハナコ』上演実行委員会では火の出るような説教とダメ出しとオルグをものともしない新人の「ハナコ」役者を募集しています。全国各地でたのしく上演して、この世界を、自分たちの手で、よくしていこう!

愛媛、大阪での上演も予約受け付けております!
https://ashitanohanako1108.wixsite.com/home

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