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戯曲の講読、上演許可の連絡などは office白ヒ沼 までどうぞ。
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中日新聞

先日上演された愛知での「顔を見ないと忘れる」。
批評記事が中日新聞に掲載された。
感謝。
安住恭子さんの誠実な人柄が、にじみでるような筆致。
ほか、愛知ではいろんな小さな(失礼!)媒体が、上演された演劇についての言論をさまざまに掲載してくれている。「七ツ寺演劇情報センター発行『SD通信』」。「名古屋劇場ジャーナル」。この芝居についても書いてくれている。ありがたいです。演劇を作る側だけではなく支える側の熱は、この土地では高い。なんとか形にして熱意を示そうとする姿勢が、うかがえるのに少し驚く。
そうだ。そうなんだ。ひとりでも多くの人が、自分の考えや感じたことを世間に堂々と表明しようとすることはそれだけでも貴いことだ。
できることなら匿名でなく顔を見せて、手を握り合って、声の響きや体臭を感じあってつながりあっていけたらすばらしい。変化し、連帯し、社会を自分達のもとに取り戻すためのつながりを。励まされる思いがする。

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たまに海にきてみたら、やっぱり海っていうのは圧倒的だ。
負けないような圧倒的な作品を。つくりたい。

演劇ユニット昼ノ月「顔を見ないと忘れる」愛知公演。来週末だ。
圧倒的に、堂々と、ありたい。。
夫婦

上品芸術演劇団「あたしと名乗るこの私」、無事終了しました!
ご来場くださった皆さん本当にありがとうございました!
今までの中ではもっとも体積の大きな舞台美術。作ってみたらいつものトラック一回では乗り切らない、ということになってしまっていて。
あまり空間の背が高くない精華小劇場の上空をさらにのしかかるようにせまくしていた黒い黒い十字架のような造型物。
客席に座ってそれをながめるだけでけっこうすでに満足してしまう、という感じになるのは毎回のことだ。これから上演があるというのに。もうすでに公演が終わった後のことを想像してさみしくなっている。
そして予想通り公演が終わったらさみしくなっている私がいる。

そして次へ、また次へ、と懲りずに進むのだろう。
次の企画はワークショップだ。ワークショップといっても広島、東京から若手の演劇集団を招いて上演を見せる、という企画だ。ひとつは鈴江の脚本作品。そのあと作り手と交流しよう、というワークショップだ。
どうか皆さん、どしどし見に来てください。参加してください!

詳しくは
上品芸術演劇団ブログ
http://blog.livedoor.jp/zyouhinn/?blog_id=1660340
まで。

上品芸術演劇団 主催
――広島【黄金山アタック】東京【M&M】 若手演劇人たちの芝居を見て交流するワークショップ――
[共催]京都市東山青少年活動センター 2009年3月27日(金) 18時10分

どうぞよろしく!
びっくり

二口大学、という役者の歴史を考える。
そういう時間をせんがわにきて持っている。いや持たざるを得ない。
考えてみれば器用なのはあたりまえなのだ。
こちらにきて、もうこの作品自体のステージ数が20回を超えているのに、彼はまだ苦しもうとしている。かわろうとしている。もちろん、演出の鈴江がしつこくてまだもっとうえを、うえを、と、あるのかないのかわかりもしないそんな高みを目指して要求し続けるからもあるのだろうけれど、それにしても、彼のしつこさも相当なものだ。
演劇はなまもので、日々お客さんが違う。今日は芝居が始まってみたらどんな反応なんだろうか、どんな反応をする客席なんだろうか、……大変静かなやりとりから幕を開けるこの芝居の、はじめの5-6分の緊張。座ってみないとわからない椅子、金属なのか木製なのかふかふかのクッションなのかわからない椅子のようなもの、なのかもしれない。それを察知しようとする彼のアンテナのおびえ。音響席から感じる。おびえる役者は魅力だ。恐怖がなくなると対応ができないのだ。
演劇はコミュニケーションの作業だから、舞台の上だけで完成度が高まってもしようがない。ましてや役者の内部だけで純粋度が高まってもしようがない。客席とどう呼吸しあうか、客席の反応にどう敏感に、鋭敏に対応して微妙に変化するのか、それを毎回さぐるのだ。彼は知っているにちがいない。その恐さを。だからこそ毎ステージが新鮮で、楽しいし、苦しみたくもなるのだ。

さあ。関西現代演劇俳優賞。今日もおびえを見せてくれ。
演出の鈴江は幕が開いたら手も出せず口も出せず祈るばかりなのだ。
ゆがむ風景
瀬戸内海の風が湿気を払ってしまうのか、ずいぶんさわやかな空気に感じる、夏の松山。電車で走る窓からうつすと、風景はゆがんで画像に定着される。その不思議。
世界は見る目によっては違って見える。
私には世界は残酷な末路に向かって進もうとしているように見える。他の人にはそう見えないのだろうけれど。他の人の目にはこれくらいに見えているのじゃないか?人と話すとずれる。そのたびにそう感じる。いや、他の人には私の見え方のほうがこちらなのだ。知っている。
食い止めるのは私たちで、私たちが動けば食い止めるのは可能なことで、それは過去の歴史もそう証明しているのだが、だって、動かしているのは私たち人類なのだから。自滅の道、といってもよいのだろう、この今のいろいろな問題。皆が知っている新聞の見出し。
人が自分の損得を優先し、自分が生きていくことだけを優先し、それが人間よ普通のことよ、と開き直って家族のことだけ考えると、悲しいかな類としての人間というのは機能不全に陥る。皆が、自分の家族が飢えないように、って考えて、そういう「善意」が戦争を引き起こしたのをもう忘れている。家族を超えて、類としての私たちはどうするのか。
 
そしたら、
「演劇で食っていく」ってことはそんなに大切なことか?
食っていくことを優先したら質はおいてきぼりになる。ってことに悲しみを抱くふつうの感性はどこにしまっておけばよいの?
 
いや、私が見ているのはこんな風景なのだ。それはそれなりにスリリングで楽しいけれど。
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